2022.11.29
この座敷に花魁は永遠に来ない──十返舎一九『東海道中膝栗毛』と都会コンプレックス
江戸時代の作品を愛読してきたJ-POP作詞家の児玉雨子さんが、現代カルチャーにも通じる江戸文芸の魅力を語る、全く新しい文学案内エッセイ。
前回は特別編として、『青楼昼世界 錦之裏』の現代的なリメイクを掲載しました。
今回はついに最終回。有名な『東海道中膝栗毛』の、あまり知られていない側面を紹介します!
東京ですり減ってゆく人間たちの物語
すこし前、麻布競馬場さんの単著『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』をご恵投いただいた。ツイッターに140字ずつ投稿された東京ですり減ってゆく人間たちの物語が収録されていて、さんざんいろんな人を小馬鹿にしたような語りが続いたあと、麻布競馬場さん自身の身を切るようなモノローグで締められる。最初から最後まで東京への愛憎がたっぷり詰まった一冊だ。
妙にリアリティのある物語にぞくぞくしながら笑っちゃいました、と編集者に感想を送りつつ、私の心底にある目はとてもひややかにその作品を見ていた。元からそういう気質なのか、正直私は東京への憧れが薄い。もちろん街は華やかで、目移りするほど楽しいことがいっぱいある。まったく惹かれないと言うと嘘になるけれど、歌や小説にあるような甘く痛い執念までは抱けない。神奈川県出身者によくあることだと思うのだが、「上京」という人生の一大イベントを経なくても都市部で学び働けて、地元に対して航空券や新幹線のチケットを取って帰る故郷、のようなイメージもない。こういった都会であがきながら人間の作品を読むたび、私は物語に出てくる恵まれたモブなんだろうと思う。
学生時代、都内での一人暮らしの生活が苦しいと嘆く同級生に「じゃあ23区外に住めばいいじゃん」と、軽く言ってしまったことがある。その子は視線を落として「あんたみたいに恵まれた人間にはわからないよ」と呟いた。『この部屋から〜』を読みながら、そんな出来事を思い出した。
この東京、ひいては都会コンプレックスというものは近世文芸にもよく見られる。当連載の第2回でも触れたが、西洋文化圏では「聖(宗教・神話)」と「俗(人間)」の対立がひとつのテーマであるのに対し、日本では「雅」と「俗」の対立と融和がポイントだ(*1)。「雅」は宮廷文化の和歌的な世界を描くもので、「俗」は日常や滑稽な世界を指すが、18世紀以降には江戸という新都市も文化的に爛熟、文化芸術の担い手は都市部の人間に移り「俗」の中のハイカルチャーな拠点となる。
現代の漫画に似た黄表紙は、田舎者が都会で成功することを夢みる物語から始まり、そこから派生した洒落本は、都会の遊里で繰り広げられる洗練された色恋や人間模様や、それができないちょっと滑稽な様子で読者の笑いを誘い、人情本は都市部の恋愛と人間関係が描かれるケータイ小説のような展開だった。
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