2022.8.30
〈娘〉から〈少女〉への予感──為永春水『春色梅児誉美』と明治期少女小説、運命に翻弄される女の子たち

「◯×しなさい」ではなく「◯×したい」
ラブソングや、別の出来事を恋愛にたとえた歌を書く際、自戒していることがある。説教にしないことだ。私は三次元のアイドルや歌手の仕事の際、女性一人称の曲の受注が多いのもあって、歌手の年齢や、ターゲットのリスナー層が若い場合ほど気をつける。(昔は唯々諾々と説教ソングも書いてしまったのだが……)
それを気にするようになったのは、恋愛、広く言えばセクシュアリティと教育の関係を知ってからだ。たとえば、おとぎ話や子供向け漫画で「真面目に慎ましやかにいれば、白馬に乗った王子様がやってきてくれる」といったような物語も、恋愛イデオロギーを未成年に刷り込む装置になりうる。いかなる性的指向だろうと恋愛は「その人らしさ」を作る、個人的な出来事だ。同時に、そんな個人的な出来事であるはずの恋愛は、教育や政治に翻弄されやすい。書く作品から思想をまったく漂白してしまうことはできないけれど、私はなるべく「◯×しなさい」ではなく「◯×したい」という歌詞を書きたいな、と思っている。
恋愛作品の教育的側面を知ったのは、明治・大正期に流行した少女小説に触れたのがきっかけだ。通常「少女小説」とは1902(明治35)年に創刊された『少女界』(金港堂)を皮切りに始まった少女向け雑誌に掲載された作品を指すのだが、まだ少女雑誌がなく、少年雑誌の中の一ジャンルにすぎなかった頃の作品は、「どんな酷い目に遭っても健気に耐え忍び、家族に仕え、処女のまま結婚する」という国家有為の良妻賢母教育の下支えになったと言われている。これについては過去にも触れている。
では、それ以前の近世文芸での──〈少女〉と呼ばれる前の〈娘〉たちの恋愛作品はどんなものだったのだろう。
時代や体制が異なるので単純に置き換えて語ることができないものの、私が読んでみて少女小説を想起した、江戸後期に流行した、現代の女性向け恋愛小説にあたる「人情本」というジャンル、その代名詞的な作品である為永春水『春色梅児誉美』(1832・天保3-1833・天保4年)を、今回は紹介したい。
『春色梅児誉美』のあらすじ
『春色梅児誉美』は江戸後期、主に女性読者に人気を博した人情本だ。四編・十二巻構成で、主な登場人物は四人、ヒモのモテ男:夏目丹次郎、丹次郎の許嫁:お長、丹次郎の生活を支える芸妓:米八、米八の芸妓仲間の仇吉の四角関係が描かれる。さらに、丹次郎とお長を陥れた悪役:鬼兵衛、花魁の此糸、お長の危機を助けた女髪結:お由、米八のなじみ客:藤兵衛、此糸の昔馴染みの客:半兵衛……など、この四人を取り巻くキャラも物語で活躍する。
あらすじはこうだ。女郎屋:唐琴屋の養子だった丹次郎は、店に勤めていた鬼兵衛の策略でその身を追われる身となる。唐琴屋に雇われていた芸者の米八は、恋仲になったが困窮している彼に貢ぐため唐琴屋の花魁:此糸のはからいで別の店でも働き始める。一方、唐琴屋の一人娘で、丹次郎の許嫁であったお長も彼に会おうとするが、その道中で悪漢に襲われかける。そこで女髪結(*1):お由に助けられ、その後は女義太夫(*2)の竹長吉として生計を立てながら、丹次郎に貢ぐことになる。丹次郎は米八と同じ芸者の仇吉とも深い仲になり、女性三人の恋心と嫉妬が描かれる。
そんななか、丹次郎が実は武家の榛沢家の隠し子であることが判明。丹次郎は家を継ぐことで窮状を脱し、許嫁であったお長は彼の妻に、一途に丹次郎に想いを寄せ続けた米八は妾になった。また、最後はお由と藤兵衛、此糸と半兵衛がくっつき、いわゆるファイナルファンタジー現象(*3)が起こり、ハッピーエンドで物語が終わる。ちなみに、仇吉はスピンオフ作品『春色辰巳之園』で米八同様、丹次郎の妾になるものの、彼との子を妊娠し失踪。紆余曲折あってまた丹次郎の家に戻ってきて、お長と米八とともに仲良く暮らした。