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机上のマジカルバナナ──J-POP作詞家が読む松尾芭蕉

明治時代以降の文学と比べ、実際に読まれることの少ない江戸文芸。しかし、芭蕉の俳句や西鶴ら以外にも、豊饒な文学の世界が広がっています。
江戸時代の作品を愛読してきたJ-POP作詞家の児玉雨子さんが、現代カルチャーにも通じる江戸文芸の魅力を語る、全く新しい文学案内エッセイ。
イラスト/みやままひろ
イラスト/みやままひろ

「ことばの毒親」的発作に襲われる時

 2018年リリースの、ハロー!プロジェクトグループであるつばきファクトリーに「今夜だけ浮かれたかった」という楽曲の詞を書いた。Dメロに「浴衣を着なかった理由」という一節があるのだが、これが「あるお祭りの夜、主人公の少女が好きなひととのセックスを期待して、一度脱いだら着付けられない浴衣を選ばなかった」と解釈され、リスナーの間で広まっていた。かまととぶっているのではなく、当初は「友達何人かで来たお祭りに(浴衣を着るほど)はりきって来たのだと思われたくないから」というような、いじっぱりちゃんの機微を書いたつもりでいた。前者の解釈を最初に目にしたときは無邪気に感心したのだが、だんだんとMVのコメント欄やネット記事などでまるでそれが正解のように語られ始めると、さすがに居心地良いとは言えなかった。言及されるのはありがたく、嬉しいことなんだけど……。じっさいに、何度か歌詞のWordデータを開いて書き直してみたこともある。

 多様な解釈に不正解の判を捺したくないから、どの楽曲でも極力歌詞を解説しないようにしてきた。それは書き手の支配欲だとさえ思う。現代文の試験じゃないのだから、解釈の自由は守られるべきだ。しかし一方、自分の書いたものが独り歩きを始めることへの抵抗感、いわば「ことばの毒親」的発作がないわけではない。この場合の毒親とは、「こんなのわたしが書いた歌詞(子ども)じゃない!」と、自分かわいさに解釈の成長を阻んでしまうことだ。具体的に「今夜だけ~」を例にすることもことばの毒親ムーヴかも、とためらったけれど、過去にインタビューでこのことを訊かれ同じ旨を答えたことがあるので、どうか勘弁してください。

 ことばの毒親である自分が目覚めてしまったとき、呪文のように唱える一節がある。「文台引き下ろせば即反故也すなわちほごなり」。俳聖・松尾芭蕉が弟子の服部土芳とほうに伝えた教えだ。「文台」とは連句の席で使われる小さな机のことで、その上にのせた紙に詠まれた歌を書いてゆくのが連句のしきたりであった。シンプルに現代訳すれば「どんな歌も詠み終わったら立ちどころに紙屑になる」ということだ。ここから「詞を書いて歌われた瞬間から、もう自分のものじゃない」とわたしは都合よく捉え直して発作を鎮めている。そして何より、これは芭蕉が活躍した俳諧という文芸形態の特徴を端的に表している。

俳諧=マジカルバナナ?

 さて、この「俳諧」とは何か。わたしなりの解釈ではマジカルバナナ文学である。
はじめにバナナの歌を詠んだら、バナナといったらフルーツ、フルーツといったらリンゴ……と、前の句とつながりつつも別の歌世界へ転じてゆく。そんな文学だ。教科書的に説明をするなら、俳諧とは、複数人で集まり、いくつかのルールのもと、句を順に詠み連ねてひとつの歌世界を作る「座の文学」のひとつである。もとを辿ると、平安時代の「雅」な貴族のものであった和歌・連歌に対する「俗」なカウンターカルチャーとして、鎌倉時代から既にあったとされる文芸形態だ。実は俳句はこの俳諧から派生したものだ。俳諧の最初の句「発句」が独立して鑑賞されるようになり、明治期に正岡子規が発句を「俳句」と呼び改め、近代文学・芸術のひとつになった経緯がある(*1)。

なぜ俳諧ではなく発句(俳句)が近代芸術になったのか。それは発句(俳句)の条件が、それ一句だけで歌世界が完結することであり、近代個人主義と相性が良かったのだろう。みんなで「バナナといったら黄色~!黄色といったら~!」よりも「バナナは黒かった。九年前、実家のキッチンにあったバナナスタンドには首を吊ってうっ血したようなそれが……」と、ひとり訥々と告白したものこそが「文学」であるというふうにされ、俳諧は近代芸術のメインストリームから降ろされてしまった(*2)。たとえるなら、アイドルグループ内のメンバー同士の関係に魅力を感じるのが「俳諧」で、エース兼リーダーが「発句」、そのエーダー(エース兼リーダー)が子規Pに発掘され「俳句」としてソロデビューし、ソロが評価される時代となった、ということだ。

 マジカルバナナはプレイヤー、オーディエンス、レフェリーが一体化している。おもしろい連想が飛び出せば、次の番のひとは戦々恐々、順番待ちのひとはいち鑑賞者として楽しめて、「あいつ、すげ~」と感心することもあれば「それはどうなん?」と異を唱えることもできる。俳諧も同じで、オチがどこへ行くのかわからないスリリングな即興性と、鑑賞の楽しさが同居している。だから「文台~」と芭蕉は弟子に伝えたのだろう。

 ところで、こんにちの職業作詞家の仕事は、その多くはメロディが先に用意され、ことばをそのメロディの形に書き嵌めてゆくものだ。そのため、ことばは必ず音楽的制約を受ける。メロディ、リズムはもちろん、コードにも歌詞が引っ張られることがあるし、むしろそれらがなくてはリリックとして成立しない。

 そして俳諧にはマジカルバナナ以上にルールが多く存在する。ご存じ五七五と七七の文字数(というより音節数)制限や、季語だけではない。「俳言はいごん」という、和歌・連歌では通常使われない俗語や漢語を使うこと。順番によって、句の中に月や花を詠み込まなければならない時があること等、まだまだ挙げられる。このように、リズムをはじめ多くの形式的な制約があり主体的にコントロールできるものではない、という点では、ポップス作詞と俳諧はかなり似ているとわたしは感じる。ちなみに、複数人で行うという点も、ポップス制作の場と共通点がある。ここ近年、主に欧米や韓国では「コライト」という、ひとつの楽曲をチームで制作する形態が定番化していて、日本でもだいぶ浸透している。前近代に戻ったというより、個人主義を経て、独立した個人たちが共同で手を組んだかたちが、結果俳諧と相似したのだろう。

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新刊紹介

児玉雨子

こだま・あめこ
作詞家、小説家。1993年生まれ。神奈川県出身。明治大学大学院文学研究科修士課程修了。アイドル、声優、テレビアニメ主題歌やキャラクターソングを中心に幅広く作詞提供。2021年『誰にも奪われたくない/凸撃』で小説家デビュー。2023年『##NAME##』が第169回芥川賞候補作となる。

Twitter @kodamameko

(写真:玉井美世子)

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