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村井理子「犬と本とごはんがあれば 湖畔の読書時間」

47歳の世界に突然飛び込んできたもの—心臓病の手術を経験したあとで

 近くに住む夫の両親と連日顔を合わせるようになって、私の世界はふたたび変わりはじめている。ほんのわずかなサインを見逃さないように、レーダーのようなものが張り巡らされている。いつの間にやら増えたマグカップ、買った覚えのない青汁、冷凍庫の隅の化石のような豚肉。私の両目は最近、そんなものばかりを素早く捉え、そしてひとつひとつ、処理していくようになった。もうこうなってくるとゲーム感覚だ。ちょっと楽しくなってきている。

 もうひとつ、備わった力がある。言葉にすると一気に嘘くさくなってしまうのが残念だが、「共感」する力だ。すべてを自分のことに置き換えるのは難しいが、問題が発生するには、必ず何かしらの理由はあると考えることが出来るようになった。腹がたつことも、荒唐無稽な言い分も、よく考えてみれば相手にも理由がある。そんな考えを常に心のどこかに忍ばせておけば、笑顔もより自然なものとなり、「それはもう聞いた」という禁句が口から出なくなる。ゆっくりと歩く人に寄り添って、自分は空を眺めて一息つくこともできるようになる(しかし訓練は必要)。

自分が年齢を重ねることで世界が変わるのは、祝福でもあり、哀しみでもあるだろう。積み重ねてきた美しい思い出の日々が、手のひらからこぼれおちていくような感覚はきっと恐怖以上のなにものでもない。しかし、それでも私はそこに希望を見いだすことはできるのではないかと思わずにはいられない。失われてしまったものを、家族が補ってあげることはできないだろうか。きっとできるのではないか。そのためにも、介護する側が世界を変えていくことだ。気持ちを汲むことだ。そんなことを考える日々である。

 今回読んだのは、朝倉かすみ著『にぎやかな落日』だ。主人公おもちさん83歳の言葉がこんなにも胸に響くのは、彼女の日々うつろう気持ちの描写があまりにもリアルで、そして愛らしいからだろう。高齢者と接していると、時折、突然の怒りをぶつけられることがある。そこにはもちろん理由があり、多くの場合、哀しみや焦りなのだが、その、胸にぐぐっと哀しみがせり上がり、そして行き場のない怒りが湧いてくる瞬間の様子が、おもちさんの言葉からはっきりと読み取ることができる。それでもまったく憎めない。やっぱり、かわいいは正義なのだなと思う。愛らしいおもちさんがいつまでも幸せに暮らしてくれるといいなと心から願いつつ、さて、私はどういう晩年を過ごすのだろうと想像し、かわいいは無理かもねと思い、本を閉じた。

朝倉かすみ著『にぎやかな落日』(光文社/2021年4月)
朝倉かすみ著『にぎやかな落日』(光文社/2021年4月)
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村井理子

翻訳家、エッセイスト。1970年静岡県生まれ。琵琶湖畔に、夫、双子の息子、ラブラドール・レトリーバーのハリーとともに暮らしながら、雑誌、ウェブ、新聞などに寄稿。主な連載に「村井さんちの生活」(新潮社「Webでも考える人」)、「犬(きみ)がいるから」(亜紀書房「あき地」)。主な著書に『兄の終い』(CCCメディアハウス)、『村井さんちの生活』(新潮社)、『犬ニモマケズ』『犬(きみ)がいるから』(亜紀書房)、 『村井さんちのぎゅうぎゅう焼き』(KADOKAWA)、『ブッシュ妄言録』(二見書房)など。主な訳書に『サカナ・レッスン』『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』『ゼロからトースターを作ってみた結果』『人間をお休みしてヤギになってみた結果』『黄金州の殺人鬼』『メイドの手帖 最低賃金でトイレを掃除し「書くこと」で自らを救ったシングルマザーの物語』『エデュケーション 大学は私の人生を変えた』『捕食者 全米を震撼させた、待ち伏せする連続殺人鬼』など。
家族の実話を描く近刊のエッセイ『全員悪人』が大好評、話題となっている。

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