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村井理子「犬と本とごはんがあれば 湖畔の読書時間」
実兄の孤独死をめぐる顚末を、怒り、哀しみ、そして、ほんの少しのユーモアで描いたロングセラー『兄の終い』のほか、翻訳書『メイドの手帖』や『エデュケーション 大学は私の人生を変えた』、発売即重版となった最新作のエッセイ『全員悪人』など、数多くの注目作を手掛ける翻訳家の村井さんが琵琶湖畔に暮らして十数年。
夫、10代の双子の息子、ラブラドール・レトリーバーのハリー君と賑やかな毎日を送っています。
公私ともに古今東西の書籍にふれる村井さんは、日々何を読み、何を思い、どう暮らしているのでしょうか。
人気翻訳家によるエッセイ+読書案内。

愛が、苦悩が、管理に変わる瞬間―自分を確立した十四歳のあの日を思いつつ

 十四歳の頃の記憶だ。

 学校の廊下にあった洗面所で休み時間に手を洗いながら鏡に映った自分の顔を見て、突然、私はこの瞬間に完全に私自身になったと確信した。何十年も経った今でも鮮やかに思い出すことができるほど、私の古い記憶のなかで、最も鮮明に残っている瞬間だ。

 自分の思考と身体がようやくひとつにまとまったのだと思う。私が、私自身がしっかりとそこにいた。これから先、どれだけ年齢を重ねても、住む場所が変わっても、どこで何をしていようとも、私はたった今この鏡に映る私から、まったく変わらない自分であり続けるはずだし、あり続けなければならないと強く誓った。その直後から目の前の景色は大きく変わり、自分の好きな世界が理解できるようになった。何に対しても動じなくなり、そして不思議なことに、大人に対する警戒心は強くなった。周囲の大人の言葉をすべて鵜呑みにすることをやめたのだ。その途端、学校生活が困難に満ちたものになったのは興味深いところだ。

 進学のため、一人で別の街に移り住み、わずか数か月で休学し、苦しい生活を余儀なくされた時も、幾度となく十四歳のあの日を思い出した。そして、どんなに苦しい状況でも、どれだけ最悪な環境であっても、あの瞬間の自分を見失うことがなければ大丈夫だと思ったし、そうやって今まで生きてきた。この年齢になっても頻繁に思い出すあの日からずっと、確かに私はまったく変わっていない。その事実が私の今を支えていると言っていい。私の精神を生かしていると言っていい。今まで生きてきて、大切なものはたくさん手に入れてきたけれど、この「自分」がなにより大事だと思う。きっと多くの人が、忘れてはいけない自分との出会いを経験し、その姿を決して手放さないように暮らしているのではないか。

 しかしこの確固たる自分が失われていくことが私の未来にも起きるのだとしたら、どう受け入れたらいいのだろう。私の未来にも起きるのだとしたら、ではなくて、きっと起きることで、その時、私は何を思い、何を頼りにして生きるのだろう。それを考えると、途端に怖くなってしまう。年齢を重ねることのゴールはどこにあるのかと考えてしまう(考えないほうがいいのはわかっている)。

長い年月をかけて積み重ねてきた様々な記憶、美しい風景、音楽、忘れたくない言葉、大好きな人たち、そういった自分の基礎となっている宝物の数々を、失ってしまう日が来たとしたら。なにより、あの日の自分が、鏡の前に立つ、自分をようやく確立した喜びに満ちた自分が、あっさりと消え失せてしまう日が来たとしたら。こんなことを考えるのは、私が日常的に、記憶の断片を失いつつある人たちと接しているからなのだろう。

 記憶が抜け落ちていく過程はとても曖昧で、まるでコップに張った水が時間をかけてわずかに蒸発していくような、そんな印象がある。はっきりとは見えないが、なんとなく目減りしていく。少なくなっていく記憶と濃縮されていく過去の思い出。強くなるこだわり。曖昧になる自我。過去が消え失せ、繰り返される「今」のなかに生きることの苦しさはいかばかりかと想像する。

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村井理子

翻訳家、エッセイスト。1970年静岡県生まれ。琵琶湖畔に、夫、双子の息子、ラブラドール・レトリーバーのハリーとともに暮らしながら、雑誌、ウェブ、新聞などに寄稿。主な連載に「村井さんちの生活」(新潮社「Webでも考える人」)、「犬(きみ)がいるから」(亜紀書房「あき地」)。主な著書に『兄の終い』(CCCメディアハウス)、『村井さんちの生活』(新潮社)、『犬ニモマケズ』『犬(きみ)がいるから』(亜紀書房)、 『村井さんちのぎゅうぎゅう焼き』(KADOKAWA)、『ブッシュ妄言録』(二見書房)など。主な訳書に『サカナ・レッスン』『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』『ゼロからトースターを作ってみた結果』『人間をお休みしてヤギになってみた結果』『黄金州の殺人鬼』『メイドの手帖 最低賃金でトイレを掃除し「書くこと」で自らを救ったシングルマザーの物語』『エデュケーション 大学は私の人生を変えた』『捕食者 全米を震撼させた、待ち伏せする連続殺人鬼』など。
家族の実話を描く近刊のエッセイ『全員悪人』が大好評、話題となっている。
最新刊は『ハリー、大きな幸せ』(亜紀書房)、および『更年期障害だと思ってたら重病だった話』(中央公論新社)。

ツイッター:@Riko_Murai
ブログ:https://rikomurai.com/

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