よみタイ

村井理子「犬と本とごはんがあれば 湖畔の読書時間」
実兄の孤独死をめぐる顚末を、怒り、哀しみ、そして、ほんの少しのユーモアで描いたロングセラー『兄の終い』のほか、翻訳書『メイドの手帖』や『エデュケーション 大学は私の人生を変えた』、最新作のエッセイ『全員悪人』など、数多くの注目作を手掛ける翻訳家の村井さんが琵琶湖畔に暮らして十数年。
夫、10代の双子の息子、ラブラドール・レトリーバーのハリー君と賑やかな毎日を送っています。
公私ともに古今東西の書籍にふれる村井さんは、日々何を読み、何を思い、どう暮らしているのでしょうか。
人気翻訳家によるエッセイ+読書案内。

普通が一番幸せという言葉の重み-先が見えない閉塞感のなかで

 先日、ソファに寝転びながらいろいろなことを考えていて、ふと思い出したことがあった。小学校五年生のときの担任だった、青木先生のことだ。二〇代後半の男性だった。両親が共働きで、家に戻っても誰もいないことから、放課後は教室や校庭で遊ぶことが多かった私に、先生はときどき声をかけてくれていた。

 この日私は、教室に残って一人でトランプ占いをしていた。七歳のときに長い入院生活を経験して、私は一人遊びが上手な子どもになっていた。トランプを常に持ち歩いていた。トランプ占いの本を母に買ってもらい、読み込んで、友達に頼まれるまま占っていた。内気だった私が、友達に話しかけるきっかけを探して、そうなっていたのかもしれない。私物の持ち込みは禁止だったように記憶しているが、私が小さな缶に入れて持ち歩いていたトランプを、担任の青木先生は一度も注意しなかった。

 一人で座って占っていた私に、青木先生が声をかけた。そこで何を話したのかは記憶にないけれど、私は青木先生に頼まれるまま、彼の未来を(あくまで適当に)占った。私の占いの答えを聞いた青木先生は少し笑って、「それじゃあ君は将来何になりたいの?」と尋ねた。何になりたいかなんてまったく考えたこともなかった私は、「有名になりたい」と適当に答えた。すると青木先生はしばらく考えて、「たぶん、普通が一番幸せだと思うよ」と言った。

 私は驚いてしまった。なんてつまらない言葉なのだろう。普通が一番幸せだなんて、先生には夢がないなあと思った。当時の私には、すっかりおじさんに見えた青木先生の顔を見つめながら、大人になったらこんなにつまらなくなっちゃうのかと失礼なことを考えた。私は何か大きなことを成し遂げて有名になりたいと思うけれど、先生にはそんな夢もないのだろうなと気の毒になって、「ふうん……」といい加減に返事をしたような気がする。青木先生は「そろそろ帰らないとお母さんが心配するよ」と言い、私を下校させた。

 それだけの話なのだが、この青木先生の「普通が一番幸せだと思うよ」が、立派なおばさんになった私の心に、今になって響いてたまらない。青木先生の言葉の重みが痛いほどわかる。普通に暮らせることのありがたさ。普通に生きられることの喜び。普通とはつまらないものではなく、何よりも貴重で、何よりも輝いている。それをここ一年、嫌というほど学んだ。あのとき、青木先生が何を考えて、そんな難しいことを十歳の私に語ったのかはわからない。でもきっと、青木先生は、私のことを子どもとしてではなく、一人の人間として扱ってくれたのではないか。なんとなく、そんな気がする。勝手にそう思って感激している(大丈夫だろうか)。

1 2

[1日5分で、明日は変わる]よみタイ公式アカウント

  • よみタイ公式Twitterアカウント
  • よみタイ公式Facebookアカウント

新刊紹介

よみタイ新着記事

新着をもっと見る

村井理子

翻訳家、エッセイスト。1970年静岡県生まれ。琵琶湖畔に、夫、双子の息子、ラブラドール・レトリーバーのハリーとともに暮らしながら、雑誌、ウェブ、新聞などに寄稿。主な連載に「村井さんちの生活」(新潮社「Webでも考える人」)、「犬(きみ)がいるから」(亜紀書房「あき地」)。主な著書に『兄の終い』(CCCメディアハウス)、『村井さんちの生活』(新潮社)、『犬ニモマケズ』『犬(きみ)がいるから』(亜紀書房)、 『村井さんちのぎゅうぎゅう焼き』(KADOKAWA)、『ブッシュ妄言録』(二見書房)など。主な訳書に『サカナ・レッスン』『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』『ゼロからトースターを作ってみた結果』『人間をお休みしてヤギになってみた結果』『黄金州の殺人鬼』『メイドの手帖 最低賃金でトイレを掃除し「書くこと」で自らを救ったシングルマザーの物語』『エデュケーション 大学は私の人生を変えた』『捕食者 全米を震撼させた、待ち伏せする連続殺人鬼』など。
家族の実話を描く近刊のエッセイ『全員悪人』が大好評、話題となっている。
最新刊は『ハリー、大きな幸せ』(亜紀書房)、および『更年期障害だと思ってたら重病だった話』(中央公論新社)。

ツイッター:@Riko_Murai
ブログ:https://rikomurai.com/

週間ランキング 今読まれているホットな記事