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村井理子「犬と本とごはんがあれば 湖畔の読書時間」

金色の目をした黒猫の残像—四十年後、迷い猫がやってきた

 そろそろ陳念を忘れかけたある日、母が、そういえば陳念が歩いていたと私に言った。

「川のそばを歩いて、港のほうに向かっているのを見たんだけど、楽しそうにしてたよ」

 私は急いでサンダルを履いて、川まで走った。もちろん陳念の姿は影もかたちもなく、茶色く濁った川には折れた柳の木の枝が流れているだけだった。私は数日母とは口をきかず、母はその理由がわからなかったようで、なんて不機嫌な娘なのだと怒っていた。私は母に心底腹を立てていた。なぜ陳念を家に連れ帰ってくれなかったのだと。
 四十年以上も前に生きていた一匹の黒猫のことを、なぜ今になって思い出したかというと、実はわが家の庭に一匹の黒猫が住み着いているのだ。真っ黒く、小柄で、金色の目をしている。庭に出るたびに、飼い犬のハリーが、必死になってその痕跡を追い続ける。私の車の周りを入念に嗅ぎ回り、尾をぴんと伸ばし、背中の毛を逆立てて、捜し回る。こんなときはさすがに本能が甦るようで、顔つきが違う。黒猫が寝ているのは私の車の下のことが多いのだろう、ハリーはその巨体をねじ込むようにして警戒している。一度黒猫とばったり遭遇したことがあり、ハリーは猛スピードで追いかけた。そのときの勢いたるや、すさまじかった。大声で呼び戻すと、一瞬で踵を返して戻ったが、冷や汗をかいた。

 読んだのは、東京キャットガーディアン監修の『野良猫の拾い方』だ。仕事仲間には無類の猫好きが多いが、そのなかのひとり、校正者の牟田郁子さんが送って下さった。私がふと、庭に黒猫がいて……と相談したからだ。先日、近所の猫好きさんが、あの黒猫、保護しようと思って……と教えてくれたので、私も協力しようと考えたのだ。その小柄な黒猫は、わが家の給湯器の上でゆったりと寝転んでいた。私を見ても逃げない。しかし近づくと逃げる。本を読んで作戦を練りながら、心のなかで、陳念さん、私のことを忘れたの? と問いかけている。

東京キャットガーディアン監修 『野良猫の拾い方 』(2018年月刊行/大泉書店)
東京キャットガーディアン監修 『野良猫の拾い方 』(2018年月刊行/大泉書店)
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村井理子

翻訳家、エッセイスト。1970年静岡県生まれ。琵琶湖畔に、夫、双子の息子、ラブラドール・レトリーバーのハリーとともに暮らしながら、雑誌、ウェブ、新聞などに寄稿。主な連載に「村井さんちの生活」(新潮社「Webでも考える人」)、「犬(きみ)がいるから」(亜紀書房「あき地」)。最新刊は『兄の終い』 。主な著書に『犬ニモマケズ』『犬(きみ)がいるから』(亜紀書房)、 『村井さんちのぎゅうぎゅう焼き』(KADOKAWA)、『ブッシュ妄言録』(二見書房)など。主な訳書に『サカナ・レッスン』『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』『ゼロからトースターを作ってみた結果』『人間をお休みしてヤギになってみた結果』『黄金州の殺人鬼』など。
近著は、エッセイ集『村井さんちの生活』(新潮社)と、翻訳書『メイドの手帖 最低賃金でトイレを掃除し「書くこと」で自らを救ったシングルマザーの物語』(双葉社)。

ツイッター:@Riko_Murai
ブログ:https://rikomurai.com/

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