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村井理子「犬と本とごはんがあれば 湖畔の読書時間」
翻訳家の村井理子さんによるエッセイ『兄の終い』。
実兄の孤独死をめぐる顚末を、怒り、哀しみ、そして、ほんの少しのユーモアで描いた話題作です。
『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』『黄金州の殺人鬼』など、多くの翻訳を手掛ける村井さんが琵琶湖畔に暮らして、今年で15年になりました。
夫、10代の双子の息子、ラブラドール・レトリーバーのハリー君と送る賑やかな毎日―。
古今東西の書籍にふれた村井さんは、日々何を読み、何を思い、どう暮らしているのでしょうか。
人気翻訳家によるエッセイ+読書案内。

本とともにやってきた初めての本気の恋 — 一冊が想いのバトンを繫いでいく

 本との出会いは不思議なもので、そのとき必要な一冊、長く記憶に残り続ける一冊が、なぜか目の前にふと現れることがある。それも、誰かの手を介して。

 私の記憶に残る、最も古い本との出会いは、中学一年生の頃だった。学内で最も怖れられていた国語教師が、現代文の授業中に一冊の本を紹介した。向田邦子の『父の詫び状』だった。そのときはあまり気にも留めなかったが、ことあるごとに、私の頭のなかに、その厳格な国語教師と『父の詫び状』が蘇ってくる。大学に入り、本格的に本を読みはじめてすぐに向田作品はほとんど読んだ。『父の詫び状』も当然読んだが、教師がこの一冊を薦めた理由はなんだろうと考え続けた。

 月日は瞬く間に流れ、数年前の話だ。SNSで何十年ぶりかに中学の同級生と繋がった私は、真っ先にあの国語教師の消息をたずねた。私が通っていたのは私立の女子校で、教師の異動は滅多にない。同級生の何人かは娘も同じ学校に通わせていたので、きっと誰か、彼の消息を知っているだろうと思ったのだ。結局わかったのは、彼が交通事故に遭い、杖なしでは歩けないようになったこと、四十代後半で退職したということだった。私の記憶のなかの彼は、しかめっ面に黒縁眼鏡をかけ、くせのある長い髪をポマードで撫でつけた、当時の姿のままだ。グレーのジャケットに黒いスラックス姿で、すたすたと早足で廊下を歩いていた。教壇から女子生徒を睨み付けるように授業をしていた彼が『父の詫び状』で伝えたかったのは何だろう。今でも頻繁に考えている。

 次に思い出すのは、大学時代に巡り会った一冊だ。私は二十歳だった。その頃の私は、朝から晩までアルバイトに明け暮れていた。いわゆる苦学生で、生活費を必死に稼ぐ日々だった。放課後、週に三回ほど働いていたのが、学生街から少し離れた場所にある居酒屋だった。店長は三十五歳ぐらいの男性で、今思い出しても本当に普通の人だった。坊主頭にジーンズ姿で、いつもよれよれのシャツを着ていた。優しい人で、アルバイトの学生たちには慕われていた。

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村井理子

翻訳家、エッセイスト。1970年静岡県生まれ。琵琶湖畔に、夫、双子の息子、ラブラドール・レトリーバーのハリーとともに暮らしながら、雑誌、ウェブ、新聞などに寄稿。主な連載に「村井さんちの生活」(新潮社「Webでも考える人」)、「犬(きみ)がいるから」(亜紀書房「あき地」)。最新刊は『兄の終い』 。主な著書に『犬ニモマケズ』『犬(きみ)がいるから』(亜紀書房)、 『村井さんちのぎゅうぎゅう焼き』(KADOKAWA)、『ブッシュ妄言録』(二見書房)など。主な訳書に『サカナ・レッスン』『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』『ゼロからトースターを作ってみた結果』『人間をお休みしてヤギになってみた結果』『黄金州の殺人鬼』など。
最新刊は、エッセイ集『村井さんちの生活』(新潮社)と、翻訳書『メイドの手帖 最低賃金でトイレを掃除し「書くこと」で自らを救ったシングルマザーの物語』(双葉社)。

ツイッター:@Riko_Murai
ブログ:https://rikomurai.com/

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