「しない。」生活のなかだからこそ、手に入れるもの、するべきことは
試行錯誤を繰り返し、日々吟味している群ようこ氏。
そんな著者の「しました、食べました、読みました、聴きました、着ました」
など、日常で「したこと」をめぐるエッセイ。
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2020.8.19
これからの住まいを考える
今日は、これをしました 第6回

ある女子大学の先生の、ウェブ連載のエッセイを読んでいたら、大学に入ってくる新入生のなかに、新書を知らない人たちがいると知って驚いてしまった。たしかに町に書店が少なくなったので、書店に行って様々な本を見る機会は減っている。インターネットで自分の興味のある本は買えるし、本そのものを買わなくても電子書籍で文章は読めるし、そういう面も影響しているかもしれない。その女子大学は偏差値が高く、入学できる学生さんたちは、勉強もちゃんとしたのだろうし、最低限、文庫、新書、単行本など、本の大きさの種類くらいは知っているだろうと当たり前のように考えていたのが覆されたのだった。
先生はそういった新入生のために、十五年間、手持ちの新書を見本として十冊ほど持っていき、それらを見せながら、図書館や書店に行くとこのような大きさの本が棚にあるからと教えた。新書はなるべく借りないで買い求め、興味のあるものを一週間一冊読むようにして、そのリストを提出しなさいといったところ、十五年間で読んだ新書のリストの提出をしなかった学生は、一人もいなかったそうだ。
若い人はまじめなのだなと感心したのだが、昔は本を読むといったら紙の本しかなかったけれど、今のようにインターネットを通じて本を読んでいる人たちは、極端にいえば現物を手にしなくても本の内容は読める。家に本が溜まらないので、整理する必要もない。ただ本を手にして読むという行為は、内容を知るという以外に、別の影響もあるような気がする。画面を通じて読むことばかりを続けていると、五感という意味では、本の装丁、紙の手触り、匂いなどなど、何か大切なものを失っているように思う。ある程度の年齢の人は、紙の本から画面へ移行しているので、まだ手にした紙の本の感覚を知っているが、生まれてからずっと画面だけで文字を見続けていると、どうなるのか。そう考えるのは、私がまだ紙の本に執着しているからかもしれないが。
新書というものが世の中に存在していることを知らなかった学生たちに驚きつつ、平野恵理子著、『五十八歳、山の家で猫と暮らす』(亜紀書房)を手にとった。あの平野さんがもう五十八歳と思ったが、自分の年齢を考えたら当然のことで、こういうときは自分の歳を忘れている。私は老齢のネコにストレスを与えるので引っ越しは禁物と知り、引っ越しをしないでいる。ネコを見送ったら次の住居を考えなくてはいけないので、興味を持って拝読した。
住んでいるのは、ご両親が所有していて、彼女も若い頃から通っていた山の家で、お二人を見送られた後、荷物の整理などで通っていたが、その家で暮らす日が長くなったという。亡くなられたご両親の家の整理をしていても、山の家にいても思い出にふけって涙する日が多かったとある。ご両親の家のそばに自分の家もあるのに、たまに通っていた山の家に住むようになったのは、どのようないきさつだったかが事細かに書いてあり、ページをめくるたびに、なるほどとうなずいた。