2020.8.10
突然死した兄の汚部屋が語るもの—片付けは、供養かトラウマか
9ヶ月経った今となっては、兄を責める気にはなれない。むしろ、兄の部屋を片付けることで、私は兄の晩年の苦労や病の辛さを、彼から拭い去ることができたのではないかと考えている(いや、考えたいのかもしれない)。こんなことを書くと妙に思われるかもしれないが、兄を思い出し、その最期を想像して辛くなるたびに行う儀式のようなものがある。兄に同情する気持ちに強く引きずられそうになるときは、心のなかで清潔な雑巾を何十枚も用意するのだ。そして同じく心のなかで、プラスチックのボトルに入れた水にセスキ炭酸ソーダを溶かしていく。準備が整ったら、清潔な雑巾を右手に、ボトルに入ったセスキ炭酸ソーダ水を左手に、記憶に残る兄のアパートに入って行く(すべて想像のなかで)。最も汚れの酷かったキッチンに真っ先に向かい、スプレーを吹きかけ、徹底的に磨きはじめる。不思議なもので、そんな想像をしているうちに悲しみは消え、心に平安が訪れる。あの汚れきった部屋を掃除することが、私ができる唯一の弔いなのだろう。少なくとも今の私はそう考えている。
責任を感じることはないし、申し訳ないと考える必要だってないことも知っている。しかし、私の心の中にある兄に対する気持ちは、きっと私と兄だけのもので、私はそんな兄と自分だけの間に横たわる気持ちを抱えながら、心のなかで兄の部屋を掃除し続けている。そうしてあげたいから、そうしている。私のなかで、兄はまだちゃんと死んでいないのかもしれない。
今もどこかで生きているように感じられる兄の、最期の日々の汚れを拭い去って、隅から隅まで磨き上げることで、兄が見た最期の光景があの汚れた部屋ではなく、私が磨き上げた部屋なのだと記憶を上書きしていく。苦しみも、悲しみも、悔しさも、そのすべてがきれいさっぱり片付くと思い込む。供養と言えるだろうし、トラウマとも言えるだろう。どう考えてもらってもいい。とにかく、私の心の小部屋には、汚れを拭き去った雑巾が数百枚は積み上げられている。兄の部屋か私の心の小部屋か、どちらが汚部屋かわかったものではない。
読んだのは、小笠原文雄の『なんとめでたいご臨終』だ。自宅で看取られることを選び、笑顔で人生をまっとうした人たちとその家族の記録である。今は、人生の終わりも選べる時代であること、笑顔でこの世に別れを告げられる人がこんなにもいることに心が温かくなる。死に対する恐怖が薄れる一冊だ。自分の死をある程度予期し、それを自分なりに受け入れることができる人は幸せだと思う。笑顔のピース写真に、こちらもピースで応えたくなる。