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北政所お寧 戦国のゴッドマザー

織田信長、豊臣秀吉、武田信玄等々、日本人の誰もが知る超有名人ばかりが戦国武将ではありません。 また超有名だからといって、光のあたる場所ばかり歩んできたわけでもない…その人生はほとんどが波乱万丈、光も影もあります。 戦嫌いだったり、趣味に生きたり…独自の個性を保ちながら歴史の隙間を縫うようにして戦国の世を生き抜いた人々を、注目の歴史小説家が紹介します。

太閤を支えた「良妻」?

 どういうわけかあまりパッとしない、やや枯れ気味なおじさん武将ばかりを紹介している本連載ですが、初めて女性を取り上げてみたいと思います。
 今回はずばり、北政所こと、高台院お寧。言わずとしれた太閤・豊臣秀吉の正室であり、前回に続いてばりばりメジャーな人物です。
 しかしこのお寧、実はほとんど史料が残っていません。まあ、表立って政治に関わったわけでも、戦場で大活躍したわけでもないので当然と言えば当然なのですが、それにしても、実名さえはっきりしないというのは困ったものです。
 お寧、寧々、寧子。書状の宛名や署名で様々な記され方をされている彼女ですが、ここは最も有名と思われる“お寧”でいきましょう。
 北政所お禰というと、「下級武士の家に生まれながら農民上がりの秀吉に嫁いだお寧は、夫をよく支える良妻だったが、やがて秀吉の愛情は、息子・秀頼を産んだ淀殿へと移る。秀吉没後、淀殿と対立して豊臣家を見限ったお寧は徳川家康に肩入れし、関ヶ原では東軍を支持、間接的に豊臣家の滅亡を招いた」というのが、おおよそ一般的なイメージでしょうか。
 では、このイメージはどれほど彼女の実像を捉えているのでしょう。豊臣の家を見限ったというのは、事実なのでしょうか。
 お寧は夫をいかに支え、夫とともに築き上げた豊臣家が滅びる様を、どんな思いで見つめたのか。今回はそんなことを考えてみたいと思います。

天下人夫婦、誕生

 通説によると、お寧は天文十七(1548)年頃、尾張国朝日村で生まれました。父は織田信長の家臣・杉原定利。母は、後に朝日殿と呼ばれる女性です。
 生年は他にも諸説ありますが、通説が正しければ、お寧は秀吉の十一歳年下になります。お寧と秀吉がどのようにして出会ったのかを語る確かな史料は存在しませんが、当時としては珍しい恋愛結婚だったようです。
 とはいえ、サルだのハゲネズミだの言われる秀吉の外見に魅かれた可能性は低そうです。到底イケメンとは言えないけれど、直接接してみれば、機転が利いて気配りもでき、何ともいえない愛嬌があった。おそらく、そんなところではないでしょうか。
 故郷の尾張国中村を飛び出して諸国を流浪していた秀吉は、いかなる経緯か織田信長に目をかけられ、織田家家臣という身分を手に入れました。しかしいまだ軽輩の身であり、さして将来性もありません。当然、母の朝日殿は猛反対。父の定利も、いい気はしなかったでしょう。
 一説によれば、お寧はすでに、織田家家臣の前田利家に嫁ぐことが決まっていたともいいます。しかしこの頃、利家は些細な喧嘩がもとで信長のお気に入りの茶坊主を斬殺し、勘気かんけこうむって織田家を離れていました。勘気が解けて織田家に帰参するのは、その数年後のことです。
 お寧と利家の縁談が実現しなかったのは、そんな前田家の事情もあったのでしょう。お寧としても、こうがいを盗まれたくらいで人を斬り殺すような相手に嫁ぐのは、嫌だったのかもしれません。
 ともあれ、若いお寧は両親の反対にもめげず、自分の意志を貫き通しました。実の両親が認めないのであればと、お寧は叔母の嫁ぎ先である浅野長勝と養子縁組をし、浅野家の娘として藤吉郎に嫁ぐことにしたのです。後に浅野家の婿養子となった浅野長政が秀吉に重用されたのも、こうした経緯があったからと考えられます。
 さて、すったもんだの末、二人は桶狭間の戦いの翌年に当たる永禄四(1561)年に祝言しゅうげんを挙げました。藤吉郎が住む長屋の土間に藁と薄縁を敷いて行われたと伝わる質素なもので、参列者もほんのわずかだったようです。
 名のある戦国武将で親の反対を押し切って結婚したという話は、他に例がありません。少なくともこの頃の二人は、互いを運命の人と認識していたことでしょう。この経緯を見る限り、お寧という女性は情熱的で、自分の意志に正直な人だったようです。
 しかし、現状は明るいとは言えません。実家から白眼視されるお寧。仕官こそしたものの、いまだ貧しく、何者にもなっていない秀吉。二人の結婚生活は、先の見えない崖っぷちからはじまったのでした。

お寧VS秀吉 仁義なき夫婦バトル

 結婚から六年後、織田信長は隣国美濃を攻略しました。秀吉も織田家を支える武将の一人にまで出世し、お寧は秀吉の家族とともに、新たに織田家の本城となった岐阜城下へ移ります。
 さらにその翌年、信長は足利義昭を奉じて上洛、畿内の大半を版図に加え、織田家は大きく飛躍しました。そして秀吉は、浅井、朝倉両家との長く苦しい戦いの末、浅井家の旧領を与えられ、長浜城主に大抜擢されたのです。
 草履取りから城持ち大名へ。他の家では考えられないような、異例の大出世です。領地も家来も増え、お寧の喜びもひとしおだったことでしょう。しかし、夫婦は大きな問題を抱えていました。二人の間に、子が生まれないことです。
 この時代、正室に最も期待されたのは、跡継ぎの男子を産むことでした。子に恵まれなかったお寧は、周囲から有形無形のプレッシャーを感じていたことでしょう。
 そんな折、秀吉が南殿という側室に、男子を生ませました。石松丸秀勝と名付けられ、七歳で夭折ようせつしたその男子については史料がほとんど残っておらず、本当に秀吉の子だったのかも確証がありません。
 しかし、秀吉がその後迎えた養子に次々と“秀勝”の名を与えたことは、秀吉が石松丸に注いだ愛情がいかほどのものだったかを物語っているように思えます。
 お寧は思い悩んだことでしょう。子を産めない自分。側室に生ませた子を溺愛する夫。夫が側室を抱えるのが当たり前な大名家の娘であれば、「そういうもの」として割り切ることもできたでしょうが、お寧の家はそれほど高い身分ではありません。
 加えて、秀吉の好色ぶりは相当なものでした。城持ち大名となったことで、浮かれていたということもあったかもしれません。「英雄、色を好む」とは言いますが、妻にとってはただの浮気癖です。
 側室の部屋に入り浸り、妾のもとへいそいそと通う夫の顔を見るたび、お寧が複雑な思いを募らせていったのは、想像に難くありません。そしてとうとう、積もりに積もったストレスが爆発する時がやってきます。
 とはいえ、そこは賢妻の誉れ高いお寧、ただ単に秀吉に対してキレたわけではありません。いや、記録に残っていないだけで、秀吉をどつき回すくらいはしたかもしれませんが、それよりも効果的な方法を選びます。すなわち、夫の上司である信長に手紙を書き、秀吉の浮気をチクったのです。
 この有名なエピソードですが、信長がお寧に与えた返書が現存しています。
 その書状の中で信長は、お寧を褒めちぎり、貴女はハゲネズミ(秀吉)にはもったいないほどの女性なので、正妻として堂々と振る舞うようにとのアドバイスをしています。そして「この書状は秀吉にも見せるように」と書き添え、有名な天下布武の朱印まで捺したのです。
 強面こわもてイメージの強い信長公ですが、家臣とその妻の痴話ゲンカにここまで真摯な神対応を見せるあたり、なかなかのイケメン上司っぷりですね。もっとも、家庭内不和で有能な部下が実力を発揮できなくなっては困るという計算もあってのことでしょうけど。
 さて、このエピソードでわかるのは、お寧の行動が、周到に計算され尽くしたものであるということです。
 たとえば鎌倉時代、「尼将軍」と呼ばれた北条政子などは、夫・源頼朝の浮気で嫉妬に駆られ、家来に相手の家を襲撃させています。しかし浮気はおさまったものの、頼朝との間には深い溝が生じ、夫婦関係はギスギスしたものになってしまいました。これでは精神衛生上よろしくない上に、夫の出世にも差し支えかねません。そこでお寧は、秀吉の弱点を衝くことにしたのです。
 尊敬する主君である信長の言う事であれば、秀吉も素直に従うでしょう。内心でお寧に反発を覚えたとしても、信長の目が光っているとなれば、粗略に扱うことはできなくなる。こうしてお寧は、羽柴家中での自らの立場を確固たるものとすることに成功したのです。しかも、浮気相手の家を襲うよりもはるかに効率よく、禍根は残さないというやり方で。
 この後も、秀吉の好色ぶりが改まることはありませんでしたが、秀吉はあらゆる場面で正室としてお寧を立て、数多い妻たちの中で最上位にあることを、周囲にアピールします。これは、信長の死後も変わりはありませんでした。
 誤解を恐れず言えば、夫婦間の駆け引きや主導権争いも一種の政治です。少々大げさかもしれませんが、夫の上司まで巻き込んだこの痴話ゲンカは、お寧と秀吉の間で行われた政治闘争でした。そしてその結果は、お寧の完全勝利に終わったのです。

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天野純希

あまの・すみき●1979年名古屋生まれ。2007年「桃山ビート・トライブ」で第20回小説すばる新人賞を受賞。2013年『破天の剣』で第19回中山義秀文学賞を受賞後、精力的に作品を発表し続ける注目の若手歴史小説家。著書に『青嵐の譜』『南海の翼 長宗我部元親正伝』『戊辰繚乱』『北天に楽土あり 最上義光伝』『蝮の孫』『燕雀の夢』『信長嫌い』『有楽斎の戦』などがある。

そにしけんじ

そにし・けんじ●1969年北海道札幌市生まれ。筑波大学芸術専門学群視覚伝達デザインコース卒業。大学在学中に『週刊少年サンデー』(小学館)の漫画賞受賞を経て、『週刊少年サンデー』掲載の「流れ力士ジャコの海」で漫画家デビュー。著作に『猫ピッチャー』、『ねこねこ日本史』『ラガーにゃん』『ねこ戦 三国志にゃんこ』『猫ラーメン』など。

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