2024.2.14
二度目の電子レンジ
群ようこさんが小説の中で描く食べ物は、文面から美味しさが伝わってきます。
調理師の母のもとに育ち、今も健康的な食生活を心がける群さんの、幼少期から現在に至るまでの「食」をめぐるエッセイです。
イラスト/佐々木一澄
ちゃぶ台ぐるぐる 第2回 電子レンジが使えない
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冬になると火事のニュースをよく目にする。ニュースで報道されているのを見聞きする限りの話だが、多くの場合、高齢者の一人暮らしや、高齢夫婦のみの世帯だったりする。燃えさかる火事の映像を見ながら、
「私も他人事ではないなあ」
とため息をつく。若い頃は、
「火事は怖い」
と感じるだけだったが、今は火事を起こしてしまった人と自分を、離して考えられなくなってきた。
以前、住んでいたマンションの向かいの家に、私より少し年長と思われる女性が一人で住んでいた。美人で身長が高くてスタイルがよく、とても目立つ人だった。顔を合わせたときには挨拶を交わした。明るくて感じのいい人で、きっと若い頃は、宝塚の男役かファッションモデル、そうでなくても人前に出る仕事をしていたに違いないと考えていた。
ある日、消防車のサイレンの音が聞こえたのでベランダから首を出して外を見てみると、その美人が住んでいる家の前に駐まった。周囲に特に煙も火も見えず、隊員の人たちも落ち着いていたので、おおごとではなかったのだろうと、また室内に戻った。
そのすぐ後に、担当編集者と打ち合わせをした。彼女は美人の家の隣に住んでいて、私のご近所さんなのだが、不思議にも町内で顔を合わせたことは一度もなかった。
「この間、消防車が来ていたのを知っていますか」
と彼女が小声でいった。
「うん、知ってる。でもたいしたことはなかったみたいね」
「まあ、そうなんですけれど。実はお隣がぼやを出したんですよ」
と教えてくれた。ぼやを出したのは、その美人だったのだ。
「えっ、そうなの? いつもしゃきっとしていて、全然、そんなことをするようには見えなかったけど」
「そうなんですよね。でもやはり年齢は年齢なので。あの家は賃貸だから、気を遣ったと思いますよ」
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たしかに火事は、思わぬところで発生したりする場合があるけれど、昔はタバコの火の不始末とか、ストーブを倒したとか、ストーブの上に洗濯物を干していて、それが落ちて燃え移ったとか、気をつければ防げたのではと思う原因も多かった。傍から見て足元がおぼつかなかったり、アクシデントに対してさっと行動に移れないだろうなと思われる人ならともかく、背筋を伸ばして、長い足をすっすっと出して歩いている美人が、ぼやを出したと聞いて、信じられなかった。
私は事実を知って、
「あの人がぼやを出すくらいなのだから、私がやらかさないという確証はまったくない」
と思った。美醜で火事を出すかどうかが決まるわけではないが、若々しく見える美人にも、そういうアクシデントを起こしてしまうという穴があったのだ。のちに編集者の彼女が教えてくれたのだが、美人は、一世を風靡した俳優で歌手の元妻だったとわかった。たしかに家の表札は、彼の名字と一致していた。
私は、なるほどねえ、といいながら、とにかく、あのような人でさえぼやを出してしまう現実を、厳しく受け止めなくてはと思うようになった。自分の家が出火元で、自分の家だけが燃えるのだったらまだいいが、火事は周囲にとてつもなく迷惑をかける。おまけに私が住んでいるのは借家なので、大家さんにも周辺住民の方々にも申し訳ない。火災保険に入っているから大丈夫という問題ではないのだ。
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高齢者と火事についてのそんな話をしていると、友だちが
「だから最近はキッチンをIHにする人が多いんじゃない。うちもIHに替えたから」
といった。たしかに私が部屋探しをしているときにも、キッチンがIHになっている、戸数が多い、単身者向きのマンションが多かったけれど、私は、
「直火が使えないといやだ」
といって、そのような部屋は最初から候補から外していた。今住んでいる部屋は、大家さんが自分たちの家と同じように造ったので、キッチンには三口のコンロが設置されていて、大きな換気扇もついている。料理をするには使い勝手がいいけれど、防災という点では火を出さないIHのほうが安全だろう。でも好きでこの部屋を選んだのだから、今のところは仕方がない。
「それとね」
と友だちは続けた。
「歳を取ったらね、火を使わないに越したことはないのよ。うちもお仏壇のろうそくはやめたし、料理は電子レンジでは作らないけど、解凍やあたため、下ごしらえは全部レンジでやっているの。あなた電子レンジも持っていないんでしょう。これからはできるだけ、火が出ないものを使ったほうがいいわよ」
「それはそうよね」
私はうなずいた。十歳近く下の友だちがすでにそのような準備をしている。私は電子レンジが嫌いなので持っていないのだ。
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