そんな思いを胸に、自身もグリズリー世代真っ只中の著者がおくる、大人の男のためのファッション&カルチャーコラム。
2020.7.6
日本ロック史上最恐バンド、ザ・スターリンの界隈がまた賑わっている
音楽やファッションなどの趣味嗜好が、兄や姉からの影響で定まった人は多いだろう。
今をさかのぼること40年弱前の中学生時代、僕が一気にパンク・ニューウェーブ好きになったのも、3学年上の兄からの影響。
兄が毎月購読していた雑誌「宝島」を読みあさり、兄が買ったり借りたりしてきたレコードを欠かさずダビングして聴いていたら、いつの間にかそうなった。
兄に金を渡され、池袋の五番街というレコード屋に、発売されたばかりのG.I.S.M.のアルバム「DETESTation」を買いに走らされたのも、今となってはいい思い出だ。
僕のパンク・ニューウェーブ道の入り口は、洋楽はP.I.L.とバウハウス、邦楽はG.I.S.M.とスタークラブなど。
そして最大のトラウマインパクト物件は、ザ・スターリンだった。
遠藤ミチロウ率いるザ・スターリンは、当時、とにかくすごい噂のバンド。
「宝島」に掲載されたライブレポを読むと、客席に向かって生ゴミやペンキ、排泄物、豚の臓物や生首を投げつけたり、全裸になって客席の最前列の女の子にナニをさせたりし、挙句の果てに公然猥褻物陳列罪で逮捕されたミチロウ。
知れば知るほど狂ったバンドだった。
「STOP JAP」「虫」「FISH INN」などのレコードを聴きながら、その忌まわしいライブレポを読んで身も心も震わせつつ、なぜか得も言われぬ魅力を感じる中学生の僕だった。

遠藤ミチロウが亡くなってから早一年。書籍とアルバムでその功績を改めて考える
それから十数年後。何の因果か僕は宝島社に就職し、その頃はまったくサブカルではなくなっていた「宝島」誌の編集部に配属された。
さらにそれから20年後、フリー編集者になった僕は、古巣の宝島社から依頼された雑誌の取材で、初めて遠藤ミチロウ氏に会う機会に恵まれた。
あの最狂男に会うのは怖かった……わけではない。
その作る曲やパフォーマンスからは想像もつかぬほど、ミチロウ氏は温厚な人物だという噂を聞いていたからだ。
果たして実際にお会いしたミチロウ氏は、予想以上に素晴らしい人格者で、あの恐れていた日々から三十数年を経て、別の意味で心をぐっとつかまれた。
2019年4月。遠藤ミチロウは亡くなった。
ニュースが流れたその日、僕は持っているすべてのミチロウ作品を聴き、胸の片隅が少しがらんとなるのを感じた。
そして結成40執念(周年)という今年、ザ・スターリン界隈がまた賑わっている。
オリジナルメンバーとしてミチロウとともにスターリンをつくったドラマー、イヌイジュン氏が思い出をつづった書籍『中央線は今日もまっすぐか?』を著し、インディーズからの少数プレスだったため、あっという間に完売し、幻となっていた1981年リリースのファーストアルバム「trash*」が再発されたのだ。
出版記念展示がおこなわれていた池袋・ジュンク堂書店で買った『中央線は今日もまっすぐか?』は、本当に面白かった。
あんなにメチャクチャ怖い存在だったザ・スターリンの内情が克明に記されているが、それはなんともほのぼのとした、ある種の青春譚のようなのだ。
国立のぶどう畑の中にある、格安集合住宅での出会い。
スターリン号と名付けたワンボックスカーで、和気あいあいと全国ツアーをしたこと。
若者が熱狂する“糞尿変態バンド”として写真週刊誌に載ったときの、メンバーの親たちの反応。
ツアー帰りの飛行機で窓外を眺め、きゃあきゃあと喜ぶミチロウ、などなど。
ある大学祭では客席に大量の爆竹を投げつけた挙句、機材に甚大な被害をもたらしたため、主催の学生に吊し上げられそうになったものの「これはオレたちの愛だ。愛がPAを破壊したのだ」と出まかせを言ってケムに巻くミチロウのくだりなどは声を出して笑った。
“世の中、なんでもアリだぜ”と僕に教えてくれた、日本のロック史場最悪のスキャンダルバンド、ザ・スターリンの舞台裏を知りたい同世代に、強くおすすめしたい一冊なのである。
