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覚悟あるみっともなさ──文筆家ひらりさが読む山下素童新刊

山下素童さんの新刊『彼女が僕としたセックスは動画の中と完全に同じだった』が注目を集めています。

今回、文筆家のひらりささんに、ご自身の体験も踏まえ、本作の書評をご寄稿いただきました。

私小説だけが許す/私小説だけに許された快楽

私小説に書かれたことがある。

事前に同意はした。仕上がった小説を最初に読んだときは面映ゆかった。でも、次第に懐疑が育った。この文章が面白いとしたら、書かれた私が面白かったというだけではないか? 私は、書かれることに同意しただけでなく、その事実を使った文章を私のほうでは書かないと彼に約束したことを、深く後悔した。そんな約束をすべきではなかったのだ。

このような事情により私は、「私小説」に厳しい。そもそも、ソーシャルメディアや同人誌市場を通じて、無名の人間が火力の強い「エッセイ」「実話」を世間に向けて送り出せる時代なのだ。人々はいくらでも、インターネットに放たれる「実話」をしゃぶることができる。昔だったら「書かれる側」で終わったかもしれない者たちも、自分で筆をとれる。

そうした世の中でわざわざ「私小説」と宣言して、他者との関わり合いの小説を書く──自分以外も観測可能だった出来事を皿に載せたうえで、審美に足る物語と修辞でそれを料理として成り立たせる──という行為には、かなりの胆力が必要だろう。

また、ほとんどの小説は私小説としての読解が可能だが、安易でつまらないし作家へのマナーとしてやらないほうがいいだけだ、と私は考えている。逆説的に言えば私小説とは、マナーの悪い客を歓迎する文芸なのだ。文中で描かれているセックスから、現実でしているセックスを勘繰ることを許すフォーマット。“私”プライベートの視姦を通じて行われる、書き手と読み手のきわどいコミュニケーション。これこそ、小説にもエッセイにもない、私小説だけが許す/私小説だけに許された快楽だろう。

風俗ルポのエッセイを刊行した男が、それを機にゴールデン街で働き、そこで出会った女たちとの交流やセックスを書いた私小説。あらすじを書くと、正直しゃらくさく響く。女性の言葉遣いのわざとらしさなど、読んでいて歯痒く感じた箇所もある。それでも、『彼女が僕としたセックスは動画の中と完全に同じだった』は、一本気で体当たりな連作集だ。山下素童という書き手の、キモチワルイ自意識が徹底的に開示されるが、そこに自己陶酔は少ない。作者を守るための虚偽やかっこつけた盛りもない、と思う。覚悟あるみっともなさ。まあ、守りが含まれていたとして許せてしまう愛嬌がある、が正しいか。デビューエッセイ『昼休み、またピンクサロンに走り出していた』にも感じていたことだ。切実に率直に読者=世界との対話を求めているから、許せる。読者を共犯にする力がある。

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ひらりさ

文筆家。1989年東京生まれ。オタク女子ユニット「劇団雌猫」のメンバーとして活動を開始後、オタク文化、BL、美意識、消費などに関するエッセイやインタビュー、レビューを執筆する。著書に『沼で溺れてみたけれど』『それでも女をやっていく』。

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