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球団史上最強の助っ人のひとり、ラルフ・ブライアントは言う。「近鉄は僕のすべて!」

現役時代から比べれば、少しふっくらはしている、58歳とは思えない若々しさ!
現役時代から比べれば、少しふっくらはしている、58歳とは思えない若々しさ!

一番印象に残っているのは10・19と翌年の優勝

日本でプレイした8年間で忘れられないのは1988年と1989年のことだと言う。

「1988年は終盤に大接戦になって、エキサイティングだった。1989年の西武ライオンズとのダブルヘッダーでホームランを連発したこと、優勝したときのことはよく覚えているよ。1日で4本もホームランを打ったことを忘れることは絶対にないだろう」

ブライアントは、強力な西武投手陣を倒すことに燃えていた。

「郭泰源というすごいピッチャーを打つことが、私のモチベーションだった。彼はその時代を代表するエースだったからね。郭を打てば、チームが優勝に近づくと思っていた。郭だけでなく、渡辺久信も工藤公康もメジャーリーグで通用するピッチャーだったと思う。ストレートが速かったし、コントロールもよかった」

1989年10月12日。西武とのダブルヘッダーで、ブライアントは勝つことだけに集中していた。彼こそが、近鉄が誇る最終兵器だった。

「あのときに考えていたことは『勝たなきゃいけない』ということだけ。負けたらすべてがムダになると思っていた。優勝をかけて西武と対戦するというチャンスはめったにないから、絶対にモノにしないと、と。もちろん、その先もあったけど、西武に勝たないことには前に進めなかったからね」

近鉄の運命を変えたホームラン

2打席連続ホームランを打って郭をマウンドから引きずり下ろしたブライアントは、リリーフの渡辺を粉砕する一発をライトスタンドに放った。

「あのシーンは絶対に忘れられないよ。ずっと抑えられていた渡辺から、ホームランを打てたんだから。とにかくうれしかった。彼がマウンドで膝をついた瞬間、『最高だな!』と思ったね。世界で一番の瞬間だ、とね。野球人生で、いや人生で忘れられないシーンだよ。彼の表情もよく覚えている。悔しかっただろうね」

あのホームランで、近鉄というチームの運命が変わった。

「フォークボールに注意はしていたけど、何を打とうとは考えなかった。狙い球があったわけじゃない。渡辺が投げたボールを打って、ホームランになった。あのスイングは、一生一度しかできないスイングだったかもしれない」

ブライアントのホームランが第1試合の勝利を呼び、連勝につながった。西武の息の根を止める一発だった。

「チームの勝利のためにという思いが実ったホームランだったよね。近鉄は僕を呼んでくれたチーム。近鉄の勝利のために僕はバットを振って、それがホームランになった。その瞬間のチームメイト、ファンの喜びようはすごかった」

強い西武を破った最大の功労者は、間違いなくブライアントだった。

「前の年、10・19で勝てなくて、悔しい思いをした。その悔しさがあったから、1989年は頑張ることができた。最後にダイエーに勝って、藤井寺のファンの前で優勝を決めることができて最高の気分だったよ」

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元永知宏

もとなが・ともひろ●1968年、愛媛県生まれ。立教大学野球部4年時に、23年ぶりの東京六大学リーグ優勝を経験。大学卒業後、ぴあ、KADOKAWAなど出版社勤務を経て、フリーランスに。『期待はずれのドラフト1位――逆境からのそれぞれのリベンジ』『敗北を力に! 甲子園の敗者たち』『レギュラーになれなかったきみへ』(いずれも岩波書店)、『殴られて野球はうまくなる!?』(講談社)、『敗者復活 地獄をみたドラフト1位、第二の人生』(河出書房新社)、『荒木大輔のいた1980年の甲子園』(集英社)、『補欠の力 広陵OBはなぜ卒業後に成長するのか?』(ぴあ)、『野球を裏切らない――負けないエース 斉藤和巳』(インプレス)などの著書がある

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