そんな、消滅した球団「近鉄バファローズ」の真実について今一度迫ったのが『近鉄魂とはなんだったのか? 最後の選手会長・礒部公一と探る』(元永知宏/集英社)だ。この本で取材した多くの近鉄在籍選手や関係者の中から、一部、書籍からは内容を加筆修正した3人のストーリーを紹介する。
ひとりめの“最後の監督”梨田昌孝氏に続く、ふたりめは4打席連続ホームランや東京ドームスピーカー直撃弾などで強烈な記憶をファンに残した、あの助っ人の証言――。
2019.11.28
球団史上最強の助っ人のひとり、ラルフ・ブライアントは言う。「近鉄は僕のすべて!」

中日の二軍からトレードされるや、74試合で34本塁打!
もし、ラルフ・ブライアントがいなければ、1980年代後半から1990年前半にかけて最強を誇った西武ライオンズの牙城は崩せなかったはずだ。1988年のシーズン途中まで中日ドラゴンズの二軍でくすぶっていたひとりのスラッガーが日本プロ野球の歴史を大きく変えた。
体がよじれるほどの豪快なスイングで、ホームランを連発。1988年6月27日にチームに合流して、わずか3カ月あまり(74試合出場)で34本塁打、73打点をマークした。8月26日に1試合3ホームランを放つなど、破壊力はすさまじかった。
「近鉄にトレードされる前は、どうやって日本の野球にアジャストすればいいのか、よくわからなかった。野球そのものも、練習や生活のスタイルも全然違ったからね。日本の練習はとにかく長く、ハードだった。バッティング練習の前に1時間もランニングをするなんて、考えられなかった。それが一番困ったところ」
しかし、近鉄バファローズの中西太打撃コーチの指導を受けたことが、その後の大爆発につながった。
「日本式の練習を繰り返したことで、自分の意識も変わったし、日本のいいところを取り入れようという気になったよ。そこが、自分の中で一番変わったところかもしれない」
近鉄への移籍を告げられたとき、自分でもこれほどの成績を残すとは思ってはいなかった。
「近鉄に移籍だと聞いて、はじめは驚いた。でも、すぐに大きな親会社が持つ球団だということがわかった。話を聞いて、自分を変えるきっかけになるかもしれない、一軍に上がれるチャンスだとポジティブに考えた。
そのために大事なのは日本の野球にアジャストすること。自分を合わせることだけを考えていた。日本の野球から何を学べるか、その中で自分の力を発揮できるのか。近鉄では、自分のベストを尽くすことしか頭になかったね」