よみタイ

鈴木光司「海の怪」

海と梅

 夕方になって、室戸岬をちょうど過ぎたあたりで天候が急に変わり始めた。
「光司さんがあんなことやるからっすよ」
 Kくんが言った。
「関係ねえよ」
 とうそぶいたが、事態は刻々と変化していった。
 どんどん風が上がってきて、海が荒れ始めた。昨日の柔らかなそよ風が嘘のように、左後方からの強い風にあおられている。
 セールが反転してワイルドジャイブが起きると、事故につながる恐れがある。そこで、帆を下から支えるブームという支柱を雑索で縛り、強風に耐えられるように補強しておいた。

 しばらく経っても、風はやむどころか強くなるばかりだ。海もどんどん荒れてくる。もう既に日は沈み、あたりは闇にのまれている。
 びゅぅぅぅぅっ!
 叫ぶような音がして、強い突風に見舞われた。その瞬間、風の力に耐えきれず、雑索がぶちっと切れた。僕はすぐに新しい雑索に替えようと、キャビン・トップまで這って向かおうとした。
 するとWくんが
「行っちゃダメ、行っちゃダメ!」
 と、制した。僕の脚を抱え込むように引き留める。必死の形相だ。
「海に落ちたらおしまいです! 今そんな作業をしたら危ない。ここはしのぎましょう!」
 僕は我に返って、Wくんの忠告を素直に聞いた。
 ヤバいヤバい、そうだ、こんなことをしてはダメなんだ。

 結局、どうにかしのぐことができて、明け方になってようやく那智勝浦に入港した。
 あのときのWくんの判断は間違っていなかったと思う。あそこで無理していたら、船が大きく揺れた拍子に落水していたような気がしてならない。
 あれは生死の分かれ目だったのだ。

 日本が世界最高峰ヨットレースのアメリカズカップに初めて挑戦したとき、スキッパーだった南波誠さんは、まさに室戸岬沖で落水して、遺体はいまだに見つかっていない。
 そんな場所で、僕はハーネスもつけずにキャビン・トップに這い上がろうとしていたのだ。
 Wくんの咄嗟の判断に、今でも感謝している。
 それ以来、僕は梅干しの種を海に捨てなくなった。

1 2

[1日5分で、明日は変わる]よみタイ公式アカウント

  • よみタイ公式Twitterアカウント
  • よみタイ公式Facebookアカウント

関連記事

よみタイ新着記事

新着をもっと見る

鈴木光司

すずき・こうじ●1957年静岡県浜松市生まれ。作家、エッセイスト。90年『楽園』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞してデビュー。91年の『リング』が大きな話題を呼び、その続編である95年の『らせん』では吉川英治文学新人賞を受賞。『リング』は日本で映像化された後、ハリウッドでもリメイクされ世界的な支持を集める。2013年『エッジ』でアメリカの文学賞であるシャーリイ・ジャクスン賞(2012年度長編小説部門)を受賞。リングシリーズの『ループ』『エッジ』のほか、『仄暗い水の底から』『鋼鉄の叫び』『樹海』『ブルーアウト』など著書多数。

週間ランキング 今読まれているホットな記事