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鈴木光司「海の怪」
地球の表面は70%が海。
しかし、その実態のほとんどがいまだヴェールに包まれている。
世界を船で渡った男だからこそ知る、海の底知れぬ魅力とそこに秘められた無限の恐怖とは――
ホラー界に金字塔を打ち立てた鈴木光司が、実話をもとに語る海への畏怖と恐怖に彩られたエピソード。

漂流する足首

海の怪 第4回

『リング』、『楽園』、『光射す海』。
 1990年前後のほぼ同時期、僕はそれぞれ約500枚の長編を書いた。『楽園』で小説家としてデビューする前に、長編を3本持っていたということは、自分にとって非常に有利に働いた。『リング』の続編の『らせん』を書くことに集中できたからだ。

 その3作のなかで、『楽園』と『光射す海』は海洋を舞台にしている。だからその頃は、海のことばかりを調べていた。
 それに、僕はいずれ自分の船を買って実際に海に出ようと思っていたから、よく漂流のことを想像した。いつか自分が海原へ旅立つとき、迂闊なことをしたら漂流しかねない。一体漂流とはどのようなものなのか、そしてそのとき、人間はどのような心理状態に陥るのか、その立場に立って思いを巡らせた。

『楽園』と『光射す海』には、マグロ漁船が漂流するシーンが出てくる。
『楽園』では、個性の異なる乗組員が漂流によって分断されていく様を、『光射す海』では乗った船から落ちて漂流する男の姿を書いた。

 これらの物語の背景には、ひとつの忘れられない取材がある。
 当時の僕は、芝居をやっていたときの友人がマグロ船に乗ったことがあると知って、彼の話を聞いてはイメージを膨らませていた。
 そして、そのイメージをさらに具象化しようと、好奇心の赴くままにオートバイを飛ばし、三浦半島の三崎港へと向かった。三崎は、関東のマグロ漁の基地である。飛び込みで、マグロ漁船の船長をつかまえて話を聞いてみようと思ったのだ。

 今では東南アジア出身の乗組員がほとんどだが、当時は日本人の乗組員も多かった。そしてその多くは“荒くれ者”だ。
 マグロ漁船で働くと、大漁であればあるほど分け前が増える。優秀な船頭であれば、魚群を探し当てて、満載で帰港することもある。そうすると、乗船から1年半後には、下っ端の船員でも数百万円を手にすることができるのだ。
 博打のようなものなので、船から下りたのち、金がなくなったら舞い戻ってくる者もいれば、悪事を働き陸上にいられなくなって再び乗船してくる者もいる。
 喧嘩で刃傷沙汰を起こし、警察から逃れるためにマグロ漁船に乗り込むケースもあったという。乗せるほうも、それをわかっていて乗組員に加える。マグロ漁の場合、一度航海に出ると、1年~1年半は戻ってこられない。乗せてやるから、そのかわり1年半はマグロ漁の仕事に耐えろということだ。

 目の前に城ヶ島が浮かぶ三崎港には、白いマグロ漁船がずらりと並んでいた。潮風に吹かれながら歩いていると、いかにも漁師然とした浅黒く日に焼けた初老の男性が目に入った。
 マグロ漁船で働いているか声をかけると、ヤニだらけの歯を覗かせて笑った。
 「そう。俺、船長やってるんだけどさ、本当はもう出航しなきゃなんねぇんだけど、人が集まらないの。お兄ちゃん、どう?」

 その誘いは丁重に断って、マグロ漁船を舞台にした小説を書こうと思っているので、取材したい旨を伝えた。すると、暇だからと漁船事務所に来いと言う。
 事務所の中はひどく荒れていて、魚のにおいが充満していた。手始めに、犯罪者を乗せることがあるのか聞くと、当たり前のようにあると言う。
「ヤバくたっていいんだよ。ちゃんと働いてくれさえすれば」
 その話を発端に、過去の経験を根掘り葉掘り聞いていった。

Juan Vilata@Shutterstock
Juan Vilata@Shutterstock
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鈴木光司

すずき・こうじ●1957年静岡県浜松市生まれ。作家、エッセイスト。90年『楽園』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞してデビュー。91年の『リング』が大きな話題を呼び、その続編である95年の『らせん』では吉川英治文学新人賞を受賞。『リング』は日本で映像化された後、ハリウッドでもリメイクされ世界的な支持を集める。2013年『エッジ』でアメリカの文学賞であるシャーリイ・ジャクスン賞(2012年度長編小説部門)を受賞。リングシリーズの『ループ』『エッジ』のほか、『仄暗い水の底から』『鋼鉄の叫び』『樹海』『ブルーアウト』など著書多数。

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