よみタイ

鈴木光司「海の怪」

漂流する足首

 なかでも記憶に残っているのが、船上での殺人の話だ。
 20人ほどの荒くれ者たちが、閉ざされた世界で生活するのだから、喧嘩は日常的に起こる。逃げ場のない船上で、本来もっとも重要な協調性は、ちょっとしたことでいとも簡単に崩れていく。
 そのとき殺されたのは、船員みんなから嫌われていた爪弾き者で、人を殺したという噂がある、喧嘩っ早い男だった。

 甲板に転がる死体を見て、船長は唸った。
 船上での殺人を経験したのは、それが初めてではなかった。
 船で死者が出たときは、船長の判断で水葬してもいいということになっている。そのまま置いておけば、腐敗が進み病原菌が繁殖する可能性もある。だから、前回は死体を海に捨てて終わらせたのだが、「せめて骨の一部を持ってきてほしかった」と、涙ながらに遺族に言われた記憶が蘇ったのだ。

 喧嘩で落水したのであれば水葬したのと同様だが、今回はデッキの上で起こった殺人だ。遺体を持って帰ろうと思えば、冷凍庫の中に入れて持ち帰ることもできた。しかし死んだ男は、ナイフで胸を突かれている。
 思いを巡らせて舳先を見ると、ちょうど無人島が見え隠れしている。そこで船長は、ボートに死体をおろして、島で火葬することにした。死因は病気などと適当に理由をつけて、骨だけは遺族に渡してやりたいと思ったのだ。

 カッターボートとテンダーボートをおろして、全員で無人島に上陸した。
 皮肉なもので、協調性を削ぐ要因だった男が消えたことで、残った乗組員たちは協力的に作業を進め、やぐらを組み、枯れ葉や枯れ枝を詰め込んで火葬場はあっという間に完成した。
 死体を燃えやすい場所に配置して、全員が見守るなか、船長が火を放った。火の粉をまき散らしながら、炎が空高く昇っていく。
 黙していても、全員の思いはひとつだった。
 殺人の事実はなかったことにするのだ。

 一時間ほど経っただろうか。
 火がほとんど消えたので、骨を拾うために乗組員たちは再びやぐらに集まった。灰を取り払うと、そこに右の足首から下だけが、焼けずに転がっている。
 なぜ、足首だけが……。
 その場にいた者たちは思い出したはずだ。
 喧嘩になると、この男はすぐに右足を鋭く蹴り出してきたことを……。
 他の体の部分はほぼ跡形もないのに、そこだけが、まるでさっきまで歩いていたかのような生々しさを放っている。
 指の一本一本、爪の形……顔貌より、なぜか当人を色濃くイメージさせる妙に存在感のある物体。
 焼け残った単なる体の一部にすぎないのに、もの言いたげにさえ見えてくる。
 俺を殺して、勝手に焼きやがって……。
 みんなが声も出さず慄いていると、ひとりの男がおもむろにその足首をつかみ、海に向かって放り投げた。宙に大きく弧を描き、それは遠くの波の間に消えた。
 そこにいる誰もが、今見たものを忘れようとしていた。

 その後、船は帰還して、骨は遺族の手に渡った。妻と、小さな男の子だった。
 海上保安庁には、決めた通りに、みんなで口裏を合わせた。
 殺人の事実も、屈強な男の肉体も、今ごろ海中のどこかで漂流する足以外、現実から消えた。

 僕は暑がりで、年がら年中、布団から足先を出して寝る。この話を聞いてからしばらくは、火照った足を意識すると、まるで目撃したかのように、荒くれ者の乗組員の焼け残った足首を思いうかべた。
 太陽が落ちて、昏い波のまにまに漂う足首には、帰る場所はもうどこにもない。

F.L.@Shutterstock
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鈴木光司

すずき・こうじ●1957年静岡県浜松市生まれ。作家、エッセイスト。90年『楽園』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞してデビュー。91年の『リング』が大きな話題を呼び、その続編である95年の『らせん』では吉川英治文学新人賞を受賞。『リング』は日本で映像化された後、ハリウッドでもリメイクされ世界的な支持を集める。2013年『エッジ』でアメリカの文学賞であるシャーリイ・ジャクスン賞(2012年度長編小説部門)を受賞。リングシリーズの『ループ』『エッジ』のほか、『仄暗い水の底から』『鋼鉄の叫び』『樹海』『ブルーアウト』など著書多数。

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