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鈴木光司「海の怪」
地球の表面は70%が海。
しかし、その実態のほとんどがいまだヴェールに包まれている。
世界を船で渡った男だからこそ知る、海の底知れぬ魅力とそこに秘められた無限の恐怖とは――
ホラー界に金字塔を打ち立てた鈴木光司が、実話をもとに語る海への畏怖と恐怖に彩られたエピソード。

海に墜ちる

海の怪 第1回

 死亡率が最も高い職業というのは、どこの国でも一致している。
それは軍隊ではない。漁師だ。船から落ちれば、人はまもなく死に近づく。板子一枚下は地獄なのだ。軍艦とぶつかって沈めばニュースになるが、世界のあちこちで生じている漁師たちの数々の遭難は、人々の耳に届かない。

 世界最高峰のヨットレースはアメリカズカップといわれているが、これは短距離レースである。一方、世界最高峰の長距離レースはボルボ・オーシャンレースという世界を一周するもので、ぼくの仲間がこのレースに関わっていた。

 ニュージーランドのオークランドに寄港した際、ぼくたちは仲間たちに「行って来いよ」と声をかけ、華々しいスタートを見送った。ニュージーランドの次の寄港地はブラジルである。そして、ブラジルに到達するまでには“船の墓場”と呼ばれるドレーク海峡を抜けなければならない。船の墓場――そこは数々の船を呑み込んだ海の難所だ。ベテランのヨットマンの彼らならば乗り越えられるはずだった。

 昼夜関係なく、船はずっと走り続ける。ライフジャケットはほとんど意味をなさない。海に落ちたとき、死までの時間を長引かせるだけだ。必要なのは、山と同じでハーネスである。ハーネスと繋がっているフックをロープに取り付け、別の場所で作業する際は、一度フックを外し、次のロープに取り付けて移動する。つまり、つねに自分とロープを繋いで落水を防いでいるというわけだ。このハーネスに繋がるロープ、そしてフックに命のすべてがかかっていると言っていい。

 その日、海は結構荒れていたのだと思う。夜の航海中、彼は船のドックハウス上で作業をしていたのだろう。次のロープにフックを付け替えようと外したそのとき――
魔の一瞬が訪れた。突然、強風が彼を突き刺すように吹き付け、ブームというセールの下を支える棒が彼の頭を直撃した。彼の体は昏い夜の海へと放り出され、そのまま闇に溶けるように消えていった。
 
 叫び声もない。響いたのはジャブンという残酷で非情な水音のみ――
 自分の身に何が起こったか覚ったときは、すでに昏い海中だっただろう。
 彼の最期は、海だけが知っている。
 夜の海での落水は死に直結する。

 あるとき、ぼくの知り合いがパラオまでのクルーズを計画し、5、6人の海の男たちが集まった。船が南下していくにつれ、季節は夏へと変わっていく。みんな意気揚々と到着を待ち望んでいたが、ひとりの男が忽然と船から姿を消した。

 彼は60代前半。口ひげを生やし、小柄な体型をしていた。ベテランの船乗りだ。そのときは短パン一丁だったという。長時間彼の姿が見えないことに気づいた仲間がキャビンからデッキに上がると、スイミングプラットフォームという船の一番後ろにあるバルコニーのような場所に、ロープに括られたもの言いたげなバケツがひとつ転がっていた。

 これが海の恐ろしさだ。
 そのときは昼間で波も穏やかだった。しかし、船というのは必ず予期せぬ揺れがくる。四方八方、どこから来るか予測不能で気まぐれな揺れが。
 恐らく水浴びをしていたのだろう。しかし、誰も見ていない場所で、経験豊富な海の男ともあろうものが、自分の体をロープに繋がず水浴びをするなど正気の沙汰ではない。
彼はとてつもない悔しさを味わったと思う。助けてくれと叫んでも、デッキに誰もいなければ声は届かない。体は深く沈んでいき、船は走り去っていく。波間に見える、先ほどまで自分が乗っていた遠のいていく船。鼻腔に容赦なく入り込む海水。迫りくる死を前に、意識を失うまで何を思ったか――

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鈴木光司

すずき・こうじ●1957年静岡県浜松市生まれ。作家、エッセイスト。90年『楽園』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞してデビュー。91年の『リング』が大きな話題を呼び、その続編である95年の『らせん』では吉川英治文学新人賞を受賞。『リング』は日本で映像化された後、ハリウッドでもリメイクされ世界的な支持を集める。2013年『エッジ』でアメリカの文学賞であるシャーリイ・ジャクスン賞(2012年度長編小説部門)を受賞。リングシリーズの『ループ』『エッジ』のほか、『仄暗い水の底から』『鋼鉄の叫び』『樹海』『ブルーアウト』など著書多数。

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