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鈴木光司「海の怪」
地球の表面は70%が海。
しかし、その実態のほとんどがいまだヴェールに包まれている。
世界を船で渡った男だからこそ知る、海の底知れぬ魅力とそこに秘められた無限の恐怖とは――
ホラー界に金字塔を打ち立てた鈴木光司が、実話をもとに語る海への畏怖と恐怖に彩られたエピソード。

甘い誘惑

海の怪 第3回

 海に落ちて死ぬ。
 そう聞けば、たいていの人は末期まつごに至るまでをこのように想像するのだろうか。
 海水が鼻腔を覆い、空気を求め開けた口には容赦なく海水が流れ込む。咳込みむせて、にじむ涙もこぼれる唾液も虚しく海水に溶け込んでいく。手足をばたつかせても、まるで誰かに引っ張られるかのように体は海中へと引きずり込まれる。
 誰か助けてくれ。耳には、海上には聞こえない声にならぬ己の叫びと、水泡のごぼごぼとした音が鳴り響く。
 息が――息がしたい。
 けれど絶望的に呼吸できない、味わったことのない苦しみ。
 苦しい、とても苦しい。
 やがて無意識のままに、体が海水に包み込まれる――

 実際は違う。
 息ができない苦しさを感じたとしても、それはほんの一瞬のことで、意識がすーっと抜けていくのだ。
 これをブラックアウトという。
 タンクを背負わずに深海へと潜っていくフリーダイビングという競技がある。当然、浮上するための空気を残して海面へと引き返さなければならないのだが、出場者は記録を作りたいがために限界まで頑張ってしまう。あと少し、あともう少しで記録が伸ばせる――
 そしてブラックアウトを引き起こす。
 生還した体験者にそのときの感覚を聞くと、なぜか苦しくないと言うのだ。痛くも苦しくもない。むしろ、気持ちいいのだと。

 これは罠だ。自然というものが人間の体をつくったとき、死に甘い囁きを与えたのだ。人間は苦しみが限界に近づくと、誘われるがまま死に向かっていく。
 どうしても生き残るというとてつもなく強靭な意志がなければ、その誘いを撥ね返すことは難しい。多くの人間は、この苦しみから抜け出して楽になれるという誘惑に負けてしまう。

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鈴木光司

すずき・こうじ●1957年静岡県浜松市生まれ。作家、エッセイスト。90年『楽園』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞してデビュー。91年の『リング』が大きな話題を呼び、その続編である95年の『らせん』では吉川英治文学新人賞を受賞。『リング』は日本で映像化された後、ハリウッドでもリメイクされ世界的な支持を集める。2013年『エッジ』でアメリカの文学賞であるシャーリイ・ジャクスン賞(2012年度長編小説部門)を受賞。リングシリーズの『ループ』『エッジ』のほか、『仄暗い水の底から』『鋼鉄の叫び』『樹海』『ブルーアウト』など著書多数。

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