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意外と快適……4畳の通称〝豚小屋〟での東京ライフ  第15話 南米へ行くためのアルバイト

 そうはいってみたものの、実際東京に来てからの私は、ほとんど映画も観ず舞台も美術館も行ってなかった。なぜなら、寮には同世代の女の子たちがいて、毎日誰かとおしゃべりして過ごすのが楽しかったから。上京前は、「渋谷のTSUTAYAは映画の品揃えが日本一」なんて番組を見ては目を輝かせていたのに、渋谷のTSUTAYAなんてほぼ行かない。一度、『花椿』に載っていた映画『マジック・クリスチャン』のVHSを見つけた時は「本当にあるんだ!」と感動したが、私はVHSのレンタル代と寮からの交通費の数百円をケチって借りなかった。私のアートへの熱意なんてそんなものだ。友達とだべって楽しかったらそれだけで満足している。上京して初めて、自分がたいして映画やらアートやらに興味がないことを思い知った。
 それにお金の問題もある。東京には欲しいもの、楽しい場所、素敵な飲み物もなんでもあるが、親の怒りを買わないためにも仕送り口座からはあまり下ろしたくない。そうなるとやはり、アルバイトをしなければ。アルバイトについては、当然うちの親は反対派である。従兄弟も留年しているし、学業の邪魔になるものという考え方だ。いつもなら親の機嫌を損ねるような真似はできないので諦めるが、ここは東京、親にはバイトなんかバレやしない。友人の大半もバイトをしているし、バイトをしないと時間を持て余してお金を使ってしまう。    

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 実は上京前からバイトをしなければと思っていたものの、私は人見知りのため、接客はおろか応募の電話すら緊張してかけられなかったのだ。しかし、そんなんじゃ社会に出た時に困るだろう。そう思い、新宿にあるチェーンのパン屋さんの面接に臨むが、あっさり不合格だった。バイトの面接で落ちるなんてそうそうないよ!と背中を押して送り出してくれた友人よ、落ちたよ。面接では30代くらいの社員と思われる男性に「仕事で一番大事なことはなんだと思いますか?」と元気に質問され、「…ミスを…しないこと……?」と恐る恐る答えると「笑顔です!」と被せ気味に言われたのを覚えている。今思えば、私に笑顔がないことへの当てつけだったのだろうか。ちなみに、当時も今もこの答えには全然納得いっていない。なんで世の中笑顔がそんなに大切なんだろう。ミスしない人の方がありがたいじゃないか。それに私の言い分としては、面接という真面目な場面で笑っていたらナメていると思われるだろう、真顔は真剣さの表れなのだ。私は昔から表情が乏しく、そのせいか反抗的だと(主に男性教師から)言いがかりをつけられてきたタイプである。笑顔の少ない人間にとってこの世は受難だ。当時の私は、社会が想定する女性のデフォルト表情が“笑顔”とはまだ気づいていなかったので、面接官の言葉に本気で困惑した。にしてもバイトで不採用って……しばらくバイトの件は保留にした。
 しかし、程なくしてアルバイトをする必要に迫られる。それは、大学2年時に行う実習先をアルゼンチンに決めたからだった。通常の私なら絶対にしない選択だが、ちょうどスペイン語を取っていた私は、南米実習に参加するための条件(スペイン語の履修と南米の一次産業に関する授業の履修)もクリアしていたので参加要件を満たしていた。一緒に授業を受けていた友人は以前から南米実習に興味があったらしく、「梅子いいなあ! 南米行けるじゃん!」と羨ましそうな反応をする。この学科は1割程度が留学生ということもあってか、海外に興味のある学生も多かった。そんな環境のせいか、つい私も「うん! 行こうかな」なんて言ってしまう。そうしてあれよあれよという間に南米行きが決定した。通常、実習の費用は学費に含まれているため、多くの学生が選択する国内実習では費用がかからない。ところが、南米実習だけは渡航費の20万円が自己負担である。そのためか参加者は10人程度だった。   
 当時の私にとって20万円はデカい。親に相談すれば、危ないからと南米行きに反対するのは目に見えているし、私も不安だ。そもそも初の海外旅行が、3週間の南米実習なんて大丈夫だろうか。と、そんな不安な状態で親と戦うことになれば意志の弱い私は絶対に負ける。なら自分で金を作り、直前になって報告をしたほうが気力も体力も削られないのではないか。そう判断し金の工面を先に考えることにした。そんな矢先、友人に誘われいとも簡単に近くのパン屋でアルバイトが始まった。ちょうど人手が足りなかったようで、中年の女性パートさんに「いつから来れる?」と言われ翌週には働いた。このバイト先で大切なのは、笑顔よりもシフトにたくさん入る人材だったようで、暇だった私はパートさんにも大変よくしてもらえた。あの落ち込んだ数日間はなんだったんだ。そんなこんなで、夏休み明けから私の生活は突然忙しくなった。とりあえず月3万程度のバイト代は全額貯金し、予定では出発までに18万は貯められる。残りは仕送り口座から下ろそう。あとは親の説得、ではなく南米実習という決定事項の報告を残すのみとなった。

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 それはたしか、学祭を見るため上京してきた母と電車で移動している時だった。立ったまま電車に揺られながら「あ、そうそう、来年の実習ね、アルゼンチンに行くことになったから」と早口で報告した。なるべく明るい声で、さも当然のことのように言うことで、まるでアルゼンチンに行くのが普通の感覚だという雰囲気を出す。一瞬、表情の固まった母は「…ふーん…アルゼンチン? 危ないんじゃない? ほかの行き先はないの?」とやんわり聞いてくる。ここで私は、やっぱりなと思いながらも、ほんの少し落胆した。子供の頃、母はよく小学生向けのピースボートか何かのCMを見ると、「ほら! おめもこういうのさ行ってみれ!」と笑っていたのだ。私も少し興味はあったが人見知りなことは自覚していたので、他の小学生と仲良くなれる自信もなく、親元を離れて外国に行く勇気もなく「う~~ん」と言うばかりだった。ついでに言うと、そういうものに参加する子供達に対して、尊敬と劣等感を抱き複雑な気持ちだった。母も私の性格を見越して、まさか行くわけないと思うからこそ言えた冗談だろう。ずっとそう思っていたが、それは本当にそうだったのだ。うちの子に行けるわけない。母は、私が大胆な行動なんてできるわけないと思っている、そう再確認した。今なら、親心で心配して引き留めただけと思えるのだが、その子供の頃を思い出し「なんだ、お母さんってお母さんなのに、私のことバカにしてたんだ」とガッカリした。 私も当時はまだ、母親たるもの、我が子の可能性を(無条件に)信じるもの、と心のどこかで思っていたのだ。
 ともあれ半年後、私は南米実習に行くことができた。親には「もう決まったことだから」と言い張ることで切り抜けた。自分でも驚くが、物理的に距離ができて、お金を自分で用意できれば親というものはたいした障壁にはならない。それさえ揃えば、あとは事後報告で親との対峙を避けられると学んだのだった。

次回は8月21日(水)公開予定です。

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冬野梅子

漫画家。2019年『マッチングアプリで会った人だろ!』で 「清野とおるエッセイ漫画大賞」期待賞を受賞。その後『普通の人でいいのに!』(モーニング月例賞2020年5月期奨励賞受賞作)が公開されるやいなや、あまりにもリアルな自意識描写がTwitterを中心に話題となり、一大論争を巻き起こした。2022年7月に、派遣社員・菊池あみ子の生き地獄を描いた『まじめな会社員』(講談社)全4巻が完結。
最新刊は『スルーロマンス』(講談社)全5巻。

Twitter @umek3o

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