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子どもの涙が通用しない事態もあることを知った。 第2話 習い事ドミノ

 後にも先にも、親に「辞めたい」と泣きついたのはこれが最後かもしれない。
 というのも、小学校に入学して以降は、「いつ母親に怒られるのか」というのを気にして生活していたからだ。テストの点数が悪かったり、母親の中でルール違反とみなされる言動があればこっぴどく怒鳴られた。
 例えば、ある日私の部屋に入ってきた母が「部屋が汚い! 少しは片付けなさい!」と叫んだかと思うと、学習机の引き出しを開けて「中も汚い!」とひっくり返し机の中身を床にぶちまけ、「こんなものがあるから勉強しないんだ!」と言ってデスクマットに敷いたセーラームーンのポスターを破かれた記憶がある。幸い折り目がついていたおかげで綺麗に真っ二つに裂けたため、裏のミラクルガールズの面にセロテープを貼って修繕することができた。
 こういう時に、呼吸が乱れるほど泣くなんてことがよくあった。しかも、その呼吸が浅くなって震えながら泣く姿についても追い打ちでなじるという母親だった。24時間キレている親ではないが、だからこそ何がきっかけで噴火するかわからない緊張感があり、だんだんと家の中ではビクビクして過ごすようになる。

 しかしまだ幼稚園の頃は「キレるお母さん」ではなかったのだろう。
 辞めたいと言うと翌週からはあっさりとエレクトーンクラブに入っていた。
 クラブに入らないという選択肢はなかったのかわからないが、母のことだから苦手を克服させて子供をきちんと育てようという気持ちからだろうか。
 ある程度成長してから知るが、母は高齢出産でやっと私という女の子を授かり、かなり過保護に育てていたように思う。叔母の話では「危ない」が口癖でいつも私を心配していたらしい。しかし過保護といっても、甘やかしてなんでもワガママを聞いてあげるというよりは、厳しく、強く、苦難を乗り越え、悔しさをバネに頑張る子供、が理想像だったのではないかと推察している。私が子供の頃は「卓球の愛ちゃん」が活躍していたし、泣きながら「勝ち」にこだわる負けん気の強い子に育てたかったのかもしれない。

 さて、エレクトーンクラブは強制的に怖い運動を強いられるスポーツクラブと違って天国のようだった。
 みんなでお歌を歌い、エレクトーンという大きな機械は押すと音が鳴って楽しい。楽譜を読むなどの難しいことはやらず、先生に言われるがままに、シールの貼ってある鍵盤を指で押して演奏の真似事もできた。誰も怒鳴らないし、優しい女の先生だし、こんなに楽しいクラブがあるのになぜ母は黙っていたのか、あー辞めてよかった、と心から思った。
 そして卒園式を迎えた帰り道、卒園が何かもよくわからないが、いい服を着てなんだかお祝いムードで母に手を引かれ上機嫌で幼稚園を後にした。
 ニコニコで家に帰る道すがら、母に「ピアノ、習いたい?」と聞かれた。
 ピアノに特段興味はなかったが、母の嬉しそうな笑顔をくじいてはいけない気がして「うん! 習いたい」と答えた。それを聞いた母も満足そうに見えた。
 ピアノを習いたいかどうかはよくわからないが、エレクトーンという機械は面白かったし、またみんなでお歌を歌って楽しくわいわいする会に参加するのなら悪くない。そう思って気軽に答えたのだった。

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冬野梅子

漫画家。2019年『マッチングアプリで会った人だろ!』で 「清野とおるエッセイ漫画大賞」期待賞を受賞。その後『普通の人でいいのに!』(モーニング月例賞2020年5月期奨励賞受賞作)が公開されるやいなや、あまりにもリアルな自意識描写がTwitterを中心に話題となり、一大論争を巻き起こした。2022年7月に、派遣社員・菊池あみ子の生き地獄を描いた『まじめな会社員』(講談社)全4巻が完結。
講談社のマンガWEBコミックDAYSにて「スルーロマンス」連載中。

Twitter @umek3o

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