2023.5.31
物心ついた時には「運動が苦手な子」というポジションに……第1話 不憫だが愛されている
私は一人っ子なので、家ではお絵かきや塗り絵などの一人遊びをし、隣の家に住む幼馴染の女の子とごっこ遊びをするくらいだったので、体操教室に行かない限りは「運動ができない」を自覚する必要がなかった。
それでも幼稚園くらいの頃は比較的明るい子供で、自分から幼稚園内の知らない子に「友達になろう!」という第一声で積極的に話しかけに行ったり、いじめっ子気質の子に嫌がらせをされるとすぐに親や先生に言いつけたり、逆におとなしすぎる子には質問攻めにして泣かせてしまう活発さ、裏を返せばデリカシーのない子供らしさがあった。
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よく、「子供の頃はおとなしくて人と話せず親を心配させたが、大人になるにつれて克服できました」という話は聞くが、私の場合、小学校低学年までは明るい普通の子供だったのに、途中から暗くて陰気な子供になりました、という逆パターンであると自認している。
子供の頃は、母に「お願い! 一生のお願い! あっ、一生のお願いは1回使ったから、百生のお願い!」とか言って手を合わせる調子の良さ、ひょうきんさがあった。
今では考えられない。その愉快さはどこに行った。
しかし、そうした明るさに影が差し始めたのは、実は幼稚園時代だったと分析している。もも組の園児になってすぐ、気がつくとなぜか、幼稚園のスポーツクラブに入れられていた。それは週に1度行われる部活のような活動である。
ひどい、ひどすぎる。何がひどいって、当時は子供なのでなんの疑問もなくそのスポーツクラブに参加していたのだから。
それは毎週土曜日の午後に幼稚園の体育館で行われ、たしか園長先生の息子だという、いつもジャージを着た若い先生が担当していた。いつもジャージを着ていたというのは、単にその時間しかその先生に会う機会がなかったからだろう。そう、いつもお世話をしてくれる見知った女の先生じゃなく、全然知らない男の先生。そういう点もスポーツクラブにちょっとした緊張感を与えていたし、なにより全然甘やかす素振りがなくニコリともしない先生は近づき難かった。
振り返ると人生の分岐点はここにある。大袈裟だが、このスポーツクラブの経験で少しずつ人生の歯車が狂っていったのだ。
次回は6月21日(水)公開予定です。
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