2021.12.1
脊柱管狭窄症と借金に苦しんだアラフィフ農家の決断
「聖域なき構造改革」の余波
バブル崩壊後の不良債権問題がいつまでも尾を引いていた時代だった。低迷を続ける日本経済を立ち直らせようと「聖域なき構造改革」を掲げた小泉政権が誕生するのは2001年(平成13年)4月26日。その翌年の10月、経済財政政策担当大臣で金融担当大臣を兼務する竹中平蔵は「金融再生プログラム」を打ちだし、金融システムの安定化と不良債権問題の解決を加速していく。根拠のないまったくの推論でしかないけれど、農協が無音のゴングを鳴らしたのは、もしかすると、このことと無縁ではないのかもしれない、と、いまになって彼は思う。
小泉内閣が誕生する6年前(1995年)、農協は住専問題でミソをつけ、世間から大バッシングを受けていた。住宅金融専門会社(住専)が抱えた回収不能債権は7兆5000億円もあったというが、その途方もない額の不良債権を抱える住専への最大貸し手が農林系金融機関(農林中央金庫、各県の信用農業協同組合連合会、全国共済農業共同組合連合会)なのだとニュースで知って仰天した覚えがある。農協と住専にどんなつながりがあるのか新聞を読んでも理解できなかったけれど、農協は彼の想像を絶するほどの大金持ちらしいとわかったからだった。不良債権処理で農林系金融機関に最終的に割り当てられたのは1兆1000億円。しかし、農林系金融機関は「だせるのは5300億円が限度」だと突っぱね、結局、残りを穴埋めしたのは国民の税金だった。
このとき投入された公的資金は6800億円。なんでだよ、と世論が反発したのは当然で、その矛先は農協に向いたのだった。何事もなかったかのようにしていても、農協には、たぶん、あのときの疵が深く残っている。そこに降って湧いた、不良債権の解決を急ぐ金融再生プログラムだった。すると、風が吹けば桶屋が儲かる、のである。ときの総理大臣が永田町で「聖域なき構造改革」と叫べば、めぐりめぐって、はるか豊後水道の向こうの農村で無音のゴングが鳴るのである。確証などないけれど、農協が潮目を劇的に変えたわけを、彼はいま、そう理解している。
彼が抱える農協や農協系金融機関への借金は、これから先、何十年かかろうとも、とうてい返済できっこない額にまで膨れ上がっていた。藤枝家の跡取りとしての見栄を保ち、あるいは、地域で頼られる存在であろうとして、男気とやらを見せた挙げ句の借金だった。農業従事者としては一流でも、農業経営体の経営者としては二流ゆえの借金だった。そこには、農協の太っ腹ぶりにだって責任の一端がありそうだと第三者の目には映るが、その所在がどこにあろうと、現実問題として、峰田農協にとって彼は紛れもなく不良債権そのものだった。一転して債権回収に舵を切った(らしい)農協は、小菊の一件から後も市場での人気が高い野菜やら花卉の栽培を持ちかけている。その誘いの言葉の裏側に「借金取り立て」と書いてあるのを、彼は、彼なりにちゃんと理解していたけれど、しかし、もう、応えるのは無理だった。脊柱管狭窄症の大手術を受けたものの、数年後には腰のひどい痛みが何度もぶり返し、そのたびに入退院を繰り返す日々が続いた。
入院生活から完全に解放されたのは最初の手術の日から7年も後のことで、そのとき彼は、すでに50歳になっていた。さすがに病院の世話にならずとも日常生活は送れているけれど、昔のように元気いっぱいに農業をできる身体ではなくなっている。一六七センチあった身長は、こぶとり爺さんのように腰が曲がってしまったせいも大いにあるが、手術で骨の一部を削ったこともあって一五四センチに縮んでいた。手術を前にして「症状は改善するにしても完治は難しい」と医者は言っていたけれど、悪い予想はたいてい当たると決まっていて、残念ながら結果はそのとおりになっている。腰痛が、腰の曲がった50歳の彼にいつもつきまとう。長い距離を歩けば腰が痛み、それどころか腰を真っ直ぐ伸ばして姿勢を正すことさえままならない。重いものを持つなんてとうてい無理な注文で、農作業などできようはずがなかった。
(以下、次回に続く)
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