2021.11.13
離婚して上京した57歳元農家が、タクシー運転手を目指したら……
いつも鏡を見てる 第11話
3章 農協と減反と聖域なき構造改革 【大分・東京 1981~2007年】
東京へ 2007年12月3日
離婚の記念に10キロの鉄アレイを仕込んでおいたと香織が白状したら、いまならその言葉をこれっぽっちも疑わないで信じてしまいそうだ。到着ロビーにあった手荷物用のカートを素直に使えばよかったものを、バッグひとつだけ載せて押すなんてと周りの目を気にして見栄を張ったのがいけなかった。右手に提げたボストンバッグに詰まっているのは3日分の下着と靴下、それに着替えのシャツが二枚、あとは封筒に入れた現金だけなのに、それがずしんと腰にきて持つのが辛い。痺れを伴ったひどい腰の痛みとは手術しても消えなかったのだから仕方がないと半ば諦めてもいる長い付き合いだが、羽田に着くまで2時間近く同じ姿勢で座っていたのが、とにかくこたえた。
離陸する少し前、機長が「上空の気流の関係で機体の揺れが予想されます」と、ほぼ満席の客室に向けてアナウンスした。何も心配はないと伝えるための落ち着きはらったその話しっぷりを聞いたらかえって不安になったけれど、揺れは思いのほか小さくて、全日空800便は定刻どおり19時40分に羽田に到着している。「でっかい空港だなァ」と、思いが言葉になってでた。それでなくても身長一五四センチと小柄な彼が羽田空港の広さに戸惑いながら腰の曲がった老人のように前かがみで歩く姿は、見知らぬ土地で飼い主とはぐれてしまった子犬みたいな、このときの彼の心細さを物語っていた。
空港ビルをでてリムジンバスの乗り場に辿り着いたとき、時間は夜の8時をずいぶんまわっていた。オレンジ色をしたバスを前にして、また戸惑う。行き先はいったいどれくらいあるのか、新宿エリア、渋谷エリア、銀座・日本橋エリア、豊洲エリア、と、行き先案内を順に目で追い、しかし、読んだところで、そこがどんな場所なのか、そこに行けば何があるのか見当もつかない。そもそも、ハナから行く当てなどないのだ。思い悩んだ末に「行くしかない」と決めた東京だった。当てもなくでてきたのだからいくら思案したところで行き先が決まるわけもなく、さて、どうしたものかと途方に暮れたところで「板橋区」が頭に浮かんだのは、たまたま、ではない。とはいえ、板橋区が東京のどのあたりにあるのか見当もつかないし、板橋区に向かえばどうにかなるわけでもないけれど、空港に居すわったところではじまらないとだけはわかっていた。
「板橋方面なら、とりあえずリムジンバスで池袋に向かって、そこから電車で、JRなら板橋駅、東武東上線だと……」
案内係の男の丁寧な説明はかえって彼の頭を混乱させるだけだったが、それでも、乗るべきは「池袋行き」なのだとは理解した。
首都高速道路を走るバスの車窓に夜の高層ビル群が映る。雨こそ降ってはいないが月の姿をどこにも見つけられない空はインクブルーの深い青よりはるかに暗く、水平方向の視線の先には空の色よりも黒い高層ビルの輪郭が影絵となって延びている。別世界の風景が広がっていた。現実感がまるでない東京の夜景に目が釘付けになった。けれど、そうしていても、ふだんにも増して強い腰の鈍痛が紛れることはない。それから30分後、バスを降りた先は、案内係の男に教えられたとおりサンシャインシティ・プリンスホテルだった。『スガモプリズン』(旧東京拘置所)の名を耳にしたことはあっても、このホテルがかつてのスガモプリズンの跡地の一角に建っているのだと知るのはずっと後の話である。夜の10時。今夜はここに泊まるしかないと腹を決め、ネット予約でなら半額ほどで泊まれたろうに、ばか正直にフロントで「部屋は空いてますか」とやったものだから宿泊料金は税込み1万5300円だった。安いビジネスホテルはいくらもありそうなものを、それを探してみようという頭がまわらず、まわったところで探す術が浮かばなかったろう。部屋に入るなりシャワーを浴び、テレビを点けることもなくベッドにもぐり込んだ。峰田をでてから何も食べていなかったが、緊張が続いているせいか空腹感はない。いつもそうしているように、背中を丸める姿勢になって痛む腰に右手を当てた。手の温もりがすぐに伝わり、気休めとわかっていても、何もしないより少しはましだと思う。眠ってしまったのを覚えていない。気がつくと朝だった。
いつだって朝の四時には起きだすのが彼の身体に染みついた習慣だが、この日は、目が覚めると7時をとっくに過ぎていた。カーテンを開けた視線の先に縦長の白くて巨大なマンションが見える。上から階数を数えだしたが手前に建つビルで下までは確認できず、それでもゆうに40階はありそうだとわかって仰天し、やっぱりここは東京なんだと自分に言ってきかせた。雨は降っていないようだが、鈍色の空は、どこを探しても陽の光を通す隙間を作っていない。点けたテレビが映しだしたのは天気予報で、「日中はずっと曇り空が続くでしょう」と無表情で予想した気象予報士の若い男が「今日、12月3日の最高気温は一四度」と言っている。おそろしく腹がへっていた。近所の喫茶店にでも飛び込めば500円で釣がくるモーニングメニューを注文できるのに、このときの彼の頭にはそんな選択肢さえ浮かんできていない。
広いエントランスホールを挟んでフロントの反対側に何軒かの飲食店が並んでいて、そこで、横文字のなんとかいう洒落た名前のカフェ・ダイニングを見つけた。地階まで降りればあと何軒か食事ができそうなところがありそうだったが、店の前に広げてあったメニューの「朝食バイキング」でここに決めた。腰の痛みが少しだけ楽になっているような気がする。食事を済ませたら、六年前に受けた手術の日からこっち、ずっと欠かさず服用している病院で処方された鎮痛剤を「忘れずに飲まなければ」と頭に浮かべた。
和洋なんでもありのバイキングで17時間ぶりの食事を済ませ、ひといきついたところで一杯目のコーヒーを飲んだ。コーヒー通ではないし、日常的に飲む習慣があるわけでもない。けれど、カフェ・ダイニングの酸味に寄ったそれを口にしながら、朝は、どちらかといえば苦みの一杯の方がいいようだと自分の好みをこのとき初めて知った。天井のどこかにスピーカーが埋めこんであるらしく、そこからピアノの音楽が流れ続けている。この店で、一人でテーブルに向かっているのは、自分と、あと二人、スーツ姿を決めたビジネスマンふうの中年の男だけで、残りは旅行者たちだろうか、年齢層はさまざまだが、カップルだったり3~4人連れだったりだ。ふたつ隣のテーブルには若い3人組の女たちがいて、そこから聞こえてくる会話は日本語ではなかった。すでにチェックアウトを済ませているらしい彼女たちは、旅行用の大きなスーツケースをテーブルの横に並べている。鮮やかな原色のそれはどれも真新しくて、この日のために買ったものだろうか。見るとはなしに視界に入った彼らの姿。急に、胸やけでもしたような小さな息苦しさを覚えた。誰もが自分と同じ空間にいて、誰もが、自分が飲んだのと同じ味のコーヒーを口にしている。それなのに、と思う。旅行者であったりビジネスマンだったりする彼らと当てもなく東京にでてきた自分には〝確かな今日の予定〟があるか否かという、豊後水道のこっちと向こうほども違いがある。少しの時間をこの空間で過ごす彼らの姿はもうすぐ消え、いつまでも行き先が決まらない自分だけがここに取り残される。その事実を突きつけられているような思いが湧いてきて、隣のテーブル席の男たちに聞かれやしまいかと心配になるほど「ドクンドクン」と焦る鼓動だった。