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いつも鏡を見てる

「ね、運転手さん、ご飯たべに行かない?」深夜の歌舞伎町で乗ってきたホステスからの誘い

タクシードライバーの職務経験を持つノンフィクション作家・矢貫隆さんが、ご自身ふくめて様々な背景を持つ多くのタクシードライバーたちの人生を徹底取材して描いた、ドラマティック・ノンフィクション『いつも鏡を見てる』
日経新聞などの書評欄でも紹介された、昭和・平成・令和を貫くタクシードライバーたちの物語を、期間限定で全文無料公開します!(不定期連載)

前回までは、1970年代の京都を舞台にした、新米ドライバーのオイルショックと恋の物語でした。

第6回からの舞台は「バブル期の東京」。24歳のタクシー運転手・磯部健一が主人公です。

いつも鏡を見てる 第6話

2章 バブルの熱狂と崩壊 【東京 1988~2005年】

新人運転手と赤阪のエリカ 1988年4月1日・10月14日

 つげの木の垣根が車道と歩道を分けている。その路肩に営業車を止めた磯辺健一が運転席の窓を開け、白い手袋をとった右手を風に当てるように伸ばす。甲を撫でて流れる風に冷たい刺を感じ、朝の天気予報の「最高気温は10.5度」に頷いた。3月のこの10年ほどの気温は一二度弱が平均のはずだが、きのうは八度までしか上がらずに雪まで舞い、ここのところ妙に寒い日が続いている。

 垣根の切れ間に建つ街路灯の白い光がフロントガラスを通して車内を照らし、それで勢いを増した室内灯の光量は新聞を読むのに恰好だった。暖房のスイッチを一段だけ「強」にまわし、シートの背もたれを大きく倒してから、さっきの客が放り投げるようにして助手席に置いていった読売新聞を手にとった。日付はすでに2日に変わっているとはいえまだ二時間だけだから、それは紛れもなく今日、4月1日の夕刊である。「京都」の文字が目を引いた。社会面の真ん中に、小さな見出しで「京都3寺院が〝拝観料〟再開」とあるぜんぶで20行ほどの記事は、古都税の廃止とそれにともなう寺社の動きを記したものだった。

 ハチジュウロク、ハチジュウシチ、ハチジュウハチと指を折って数え、磯辺は、1985年(昭和60年)から始まったタクシー運転手としての自分のキャリアをあらためて確認するように「2年と5か月か」と呟いた。

磯部がタクシー運転手になった理由

 高校を卒業して稼業の寝具店の仕事を手伝うようになっていた磯辺健一にしてみれば、予告もなしの父親の廃業宣言に少しの戸惑いはもちろんあった。けれど、とにかくクルマの運転が好きで、中古で買ったケンメリのスカイラインを乗りまわすのが何よりの楽しみな彼が「次の仕事はタクシー」を意識するまでに長い時間はかかっていない。タクシー運転手の平均年収は428万円で厚生省が発表する全産業男子労働者の平均年収には60万円ほど及ばないのは調べてすぐにわかったが、それがさしたる問題だとも思わなかった。二種免許を取得するのに必要な資格、21歳以上であることは五か月前にクリアしている。普通一種免許を取得してから「3年以上」のハードルもぎりぎりクリアしている。タクシー会社で働くなら日本交通がいいと言ったのは父親で、その言葉に従った二一歳の磯辺健一が「日本でいちばん有名だ」とも父親が言ったタクシー会社の面接を受けたのは、大ファンだった女優の夏目雅子が急性骨髄性白血病で亡くなった1か月後、甲子園球場で行われた西武対阪神の日本シリーズ第五戦を7対2で阪神が獲り、通算三勝二敗、タイガースが初の日本一を獲得するまであと一勝と迫った1985年10月31日のことだ。後楽園にある事務所で行われた面接を終えた時点で抱いた「たぶん大丈夫だろう」の感触どおり、それから4日後、正式に採用の連絡が届いている。

 新入運転手の養成所に一か月通い、その間に二種免許を取得し、東京タクシー近代化センター(現在の東京タクシーセンター)で実施する難関と評判の地理試験にも一回で合格した。所属するのは、借りたばかりのアパートに近い常盤台営業所で、そこでの初日は指導員が同乗しての実地研修だった。営業所をでて川越街道を池袋に向かって走り、明治通りを右折して池袋駅前を通過ぎてもまだひとりの客も見つけることができず、そうでなくとも初乗務で胸がはち切れそうな緊張でいっぱいなのに、それが焦りの気持ちに変わっていた。すると焦りが増すにつれドクンドクンと打つ鼓動はどこまでも強くなり、吐き気をもよおすほど息苦しい時間が過ぎていく。明治通り沿いの高戸橋の交差点を越えたところで若い女が手をあげた。新宿駅の東口までと言ったその女が、磯辺健一がタクシー運転手として乗せた最初の客だった。それから5日後、都合3回目の出番の夜に休憩で入ったデニーズだったかジョナサンだったか、ファミレスで読んだ朝日新聞の夕刊が、一面で「清水寺など有名10寺院 一斉に拝観停止」と書き、金閣寺も銀閣寺も、京都市が決めた古都保存協力税(古都税)に反対し12月5日から拝観停止に入ったと伝えていた。文化財保護を目的として市内40の対象寺社の拝観料に、大人50円、子ども30円を課税しようという古都税。京都市仏教会はこれに対し、条例が施行されるや、仏教会に加盟する寺院の一部が事前に宣言していたとおり拝観停止を実行している。その直後の和解で解除になったものの、再びの拝観停止となったと伝える記事だった。すぐ下には東京外為市場の終値が203円とも書いてあった。わずか二か月半前まで1ドルが240円前後で推移していたのに、9月のプラザ合意*1を境に異様なペースでの円高が続いていた。新聞には「円高不況」の文字が必ずどこかのページに載っていた。

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矢貫 隆

やぬき・たかし/ノンフィクション作家。1951年生まれ。龍谷大学経営学部卒業。
長距離トラック運転手、タクシードライバーなど多数の職業を経て、フリーライターに。
『救えたはずの生命─救命救急センターの10000時間』『通信簿はオール1』『自殺―生き残りの証言』『交通殺人』『クイールを育てた訓練士』『潜入ルポ 東京タクシー運転手』など著書多数。

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