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一発で12万円! バブル期の信じられないタクシーの使い方

日本の物流を支える東名高速

 厚木インターチェンジを過ぎて車線がひとつ減ったあたりで道路照明がなくなり、ヘッドライトの光が映しだす路面だけが印象的な流体刺激として視界に飛び込んでくる。三六キロポストを越えたのを合図に、西に向かう大型トラックは事前に申し合わせでもしていたかのように左側の車線で時速90キロの列を作り、その行儀のよさのおかげで追い越し車線は時速140キロくらいで走り続ける磯辺健一のタクシーのものになった。抜き去っても抜き去っても途切れることがない大型トラックの大行列。深夜の東名高速は紛れもなく日本の物流を支える重要な産業道路そのものだった。小さなパーキングエリアだけでなく、通すぎた海老名のサービスエリアでも休憩場所を求めるトラックが駐車場に入りきれずに路肩で順番待ちをしていた。いつだったか、これほど物流が活発なのだからサービスエリアの狭隘問題は早急に解消すべきだという論調の新聞記事を読んだことがある。磯辺は、その現実を目の当たりにしながら静岡駅に向かって深夜一時半を過ぎた東名高速を飛ばすのだった。

 速度計が140~150キロを示し続ける。厚木インターチェンジを過ぎたところで運賃は1万6000円を超えた。静岡インターまでの距離は160キロ。深夜割増だし、運賃は4万どころか5万円を大きく超えそうだ。

「運転手さん、ちょっとお願いがあるんですが」

 ヘッドライトに照らされて暗闇に浮かぶ鈍色の強烈な流体刺激はいつしか単調な刺激の連続でしかなくなり、磯辺の目に映るのは現実感を失った風景だった。深夜の東名高速道路では、抜き去っても抜き去っても赤いテールランプの誘導灯が消えることはない。タクシー専用車のなかではハイグレードに分類されるクラウンのスーパーデラックスだが、しょせんは遮音性に乏しいタクシー仕様、時速140キロは、四気筒エンジンのがなり音とタイヤの接地音をごちゃまぜにした騒音を容赦なく車内に持ち込んでくる。客の「もう少しボリュームを上げて」の注文には応じたけれど、文化放送の深夜番組がリクエスト曲として流している『ロンリー・チャップリン』は明瞭には後ろの席に届いていないだろう。

「運転手さん、ちょっとお願いがあるんですが」

 西浅草で「静岡まで」と目的地を告げたっきりほとんど会話もなく黙ったままだった乗客が、何か思いついたような口調で「そうだ、運転手さん」と喋り始め、磯辺は失いかけていた脳への刺激を取り戻す。

「静岡駅の前にうちの会社の営業所があって、そこまで行くんですけど、用事はすぐに済みますから少し待ってもらうこと、できますか」

「いいですけど」

「じゃ、東京まで戻りも乗りたいので少しだけ待ってて下さい。仕事といっても書類の確認だけなので15分くらいで終わりますから」

 片道5万円として、東京まで戻って10万円。乗り逃げの心配がないこの客を乗せた時点で持っていた3万円を合わせると、今日の水揚げは確実に13万円になる。つい2時間前までときわ台駅前のロータリーでくすぶっていたのを考えると、まさに一発逆転、無線一本で二出番に近い水揚げになる。

 近ごろの日車営収入は5万6000円前後で推移していると組合の機関誌に書いてあった。乗務数は月に11~13勤。平均12勤として単純計算すると東京のタクシー運転手の月平均水揚げは67万円を超すことになるが、それは同時に、80万を水揚げする運転手が掃いて捨てるほどもいるという意味であり、90万円以上を水揚げする運転手だって多くいるという意味でもある。運転手募集の新聞広告に「月収45万円以上」と謳っているのもまんざら噓じゃないわけだ。磯辺が勤務する会社は有名な老舗だけあって運転手の平均水揚げは東京全体の平均よりも明らかに高く、そのなかにあって彼の営業成績は、トップクラスとまでは言わないまでも、社内の平均よりもずっと上にランクされている。ここ一年、平均して100万円近くをキープしていた。

 タクシー運転手になって3か月ほどして愛車のケンメリを手放した。家業の手伝いをしていた時分、休みの日にはもちろん、そうでない日も仕事が終わればあてもなくドライブするほど好きだったクルマだが、運転手稼業に入ってからというものケンメリどころじゃなくなった。あの頃の都内のタクシーの日車営収は4万7500円だったが、日本交通では最低でも平均5万円の水揚げがないと本採用にはならないと先輩から脅かされたせいもあって、運転手になりたての磯辺健一は必死だった。もうひとつの趣味である釣りを諦めたのもそれが理由だ。彼とは正反対で物静かな2歳違いの弟と始めた釣りは、荒川でフナを最初の獲物にしたところから始まって、体長73センチの野鯉を釣り上げたのはいつまでも自慢になっている。けれど、とにかく営業成績を上げることだけに集中しようと決めた磯辺は、その釣りさえもやめてしまっていた。この仕事は頑張れば頑張ったぶんだけ金を稼げると先輩運転手たちは言ったけれど、そのとおり、結果はすぐに表れた。日本交通に入社する前の年、東京のタクシー運転手の平均年収は428万円だったが、磯辺の1年目の年収は500万円で、それは厚生省が発表している全産業男子労働者の平均年収よりも上をいく金額だった。そして去年は、もう少しで600万円に届きそうなところまできていた。ここのところの月の水揚げは90万円強だから、今年の年収は、たぶん600万円を軽く越すだろう。25歳の勤め人で年収600万円は上出来だと思う。そのためには一乗務あたり7万円は最低でも水揚げをしたい。ときわ台駅前で客待ちしていた時点で、今日の調子では厳しいかもしれないと諦めムードだったけれど、そこに降って湧いた静岡往復だった。

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矢貫 隆

やぬき・たかし/ノンフィクション作家。1951年生まれ。龍谷大学経営学部卒業。
長距離トラック運転手、タクシードライバーなど多数の職業を経て、フリーライターに。
『救えたはずの生命─救命救急センターの10000時間』『通信簿はオール1』『自殺―生き残りの証言』『交通殺人』『クイールを育てた訓練士』『潜入ルポ 東京タクシー運転手』など著書多数。

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