2019.11.12
今年の球界の覇者、工藤の童顔と優勝運はどこまで続くのか~工藤公康(プロ野球監督)
今シーズンのソフトバンクは強かった。
レギュラーシーズンこそ2位で終わったものの、CS(クライマックスシリーズ)を勝ち上がり、日本シリーズでは巨人に4連勝。日本シリーズ三連覇は球団史上初となるばかりでなく、平成の初め、1990~92年の西武ライオンズ以来というから、どれだけ難易度が高いことかが分かる。
工藤公康監督は2015年の監督就任以来、5年間で4度日本シリーズに出場し、4度とも日本一に輝いた。現役生活29年のうち、リーグ優勝14回・日本一11回を経験し「優勝請負人」と呼ばれた工藤の優勝運は、監督になってからも続いているようである。
その三度目の日本一を決めた10月23日の東京ドーム。
試合後の勝利監督インタビューでお立ち台に上り「いやもうホントに……最高の気分です、ありがとうございます!」とファンに向かって頭を下げた工藤を見て、改めて思ったことがある。
「顔が変わらない……」
キョロリとした大きな目と丸い顔。
工藤は1982年に西武に入団した時からあの顔だった。
入団早々に当時の広岡達朗監督から「坊や」と呼ばれ、毒島章一コーチから「カリメロ」とあだ名を付けられた工藤の顔。
ソフトバンクの黒いビジターユニフォームに身を包み、つばだけが黄色い帽子をかぶった現在の工藤は余計にカリメロ味を増しているように思うが、それを差し引いても37年前と同じ顔なのである。
リアルタイムで見ていないので何とも言えないが、当時の写真を見る限り、恐らく名古屋電気高時代に甲子園出場した時も同じ顔だったのだろう。
昭和から平成を経て令和になり……工藤公康の顔だけが変わらない
工藤入団後の西武は、森祇晶監督時代の86~94年の9年間にリーグ優勝8回・日本一6回を成し遂げ、広岡監督時代に次いで「第二次黄金時代」を迎えた。工藤はその中心選手となり、成績ばかりでなく奔放な発言やファッションなども注目された。
チームメイトの渡辺久信や清原和博とともに「新人類」と呼ばれた工藤。
当時の工藤を特集した雑誌記事には「新人類」の他にも「ひょうきん投手」「ネアカ・コンビ(渡辺とともに)」「西武のKKコンビ(清原とともに)」「西武たのきんトリオ(渡辺・清原とともに)」という言葉が躍っている。
あれから30年が過ぎ、これらの言葉もめっきり聞かれなくなった。
渡辺も清原も年相応の見た目となり、あの頃の面影も薄らいでいる。
なのに工藤だけが、当時と全く変わらない顔なのである。
91年オフに雅子夫人と結婚式を挙げ、「子連れ結婚式」として話題になった時も、工藤はあの顔だった。その時生後3か月だった長男・阿須加も今や28歳となり、俳優として活躍している。ともすると父よりも大人びて見える。
94年にFAでダイエーに移籍し、入団会見で王貞治監督にユニフォームを着せてもらった時も、99年に二度目のFAで巨人に移籍した時も、その巨人で04年に41歳3ヶ月(当時の史上最年長記録)で通算200勝を達成して阿部慎之助と抱き合った時も、工藤の顔は変わらなかった。
門倉健の人的補償として横浜に移籍した07年、工藤は43歳になっていた。
入団会見で「ハマのおじさんと呼んでください」と答えた工藤だが、その顔はどうしたって「ハマの坊や」の方がふさわしい顔であった。
その後48歳まで現役を続けた工藤。長く現役を続けられた理由は厳しい体調管理もあっただろうが、顔の変わらなさも一因だったのではと思ってしまうほどだ。
時代は昭和から平成を経て令和になった。身の回りの多くのものが変わっていった。
しかし工藤公康の顔だけが変わらない。
このまま変わらずにいるのか、あるいはどこかで変化が訪れるのか。それを見届けるためにも、我々は長生きしなければならない。