よみタイ

ブンゴウ泣きたい夜しかない。~文豪たちのなんだかおかしい人生劇場
「文豪」というと皆さんはどのようなイメージを思い浮かべるでしょうか。
いつも気難しそうな顔をしてて、メガネかけてヒゲなんか生やしてて、伊豆あたりの温泉旅館の一室で吸い殻山盛りの灰皿を脇目に、難しい小説なんか書いてる…。そんなイメージを持たれがちな彼らですが、実は現代人とたいして変わらないような、実に人間臭い面もたくさんあるのです。

さて、今回は文豪中の大文豪、純文学作品に与えられる最高の栄誉ともいえる、かの「芥川賞」にその名を冠された芥川龍之介のお話です。35歳の若さで自死してしまった天才は、こと恋愛や結婚に関してはどうだったのかと言いますと……。

【文豪と結婚】「だって好き同士だったから」…精神を病んでいく芥川龍之介を終生支え、愛し愛された妻・文

「小鳥ノヤウニ幸福デス」と手紙に綴った芥川龍之介と妻・文との10年の軌跡

芥川龍之介(あくたがわ・りゅうのすけ)
1892年3月1日 – 1927年7月24日
小説家。東京生まれ。東京帝大英文科卒。在学中から創作を始め、短編『鼻』が夏目漱石の激賞を受け、若くして文壇にデビュー。数々の短編小説の傑作を残した。1927年、将来に対する「ぼんやりした不安」という言葉を遺書に残し自殺。『羅生門』『地獄変』『河童』など作品多数。

ワタクシハ アナタヲ 愛シテ居リマス 
コノ上愛セナイ位 愛シテ居リマス ダカラ幸福デス 
小鳥ノヤウニ幸福デス

これは芥川龍之介がのちに妻となる塚本文という女性に宛てた手紙で、彼女の死後、愛用していた裁縫箱から出てきたものです。
この愛情あふれる手紙を送った芥川龍之介と塚本文は大正7年2月、龍之介が25歳、文が17歳の時に結婚しましたが、二人の出会いはだいぶ早く、文が7歳の時まで遡ります。

東京府立第三中学校に通っていた芥川龍之介には山本喜誉司という同級生がいたのですが、この山本喜誉司の姪が塚本文で、当時、日清戦争で父を亡くした文は母親と共に山本喜誉司の住む本所相生町の家に身を寄せており、文はそこによく遊びに来ていた、当時15歳の龍之介としばしば顔を合わせていたのです。龍之介が遊びに来ると文は「兄さん、芥川さんが来たわよ」と喜誉司を呼ぶのがいつものことでした。

それから月日は流れ、龍之介24歳の頃、芥川家ではそろそろ龍之介も結婚をということになり候補者が次々と持ちあがります。その中でも一番の候補として挙がったのが塚本文でした。塚本家はすでに山本喜誉司の家から本郷の方に引っ越していたため、龍之介と文は久々の再会となりましたが、龍之介は美しく成長した16歳の文に驚き、そして魅かれていくことになります。

「文ちやんを貰ひたいと云ふ事を、僕が兄さんに話してから、何年になるでせう。貰ひたい理由は、たつた一つあるきりです。さうして、その理由は僕は、文ちやんが好きだと云ふ事です。勿論昔から、好きでした。今でも、好きです。その外に何も理由はありません。
(中略)僕のやつてゐる商売は今の日本で一番金にならない商売です。その上僕自身も碌に金はありません。ですから生活の程度から云へば何時までたつても知れたものです。それから僕はからだもあたまもあまり上等に出来上つてゐません。(あたまの方はそれでもまだ少しは自信があります。)うちには父、母、伯母と、としよりが三人ゐます。それでよければ来て下さい。僕には文ちやん自身の口からかざり気のない返事を聞きたいと思つてゐます。繰返して書きますが、理由は一つしかありません。僕は文ちやんが好きです。それだけでよければ来て下さい。」

大正5年8月25日、龍之介が文に送った書簡にはなんとも純粋で真っすぐなプロポーズの言葉が綴られています。
三中を成績優秀で卒業して一高に無試験で入学し、その一高も26名中2番の成績で卒業し、さらに東京帝国大学へと進んだ龍之介に「あたまもあまり上等に出来上つてゐません」と言われると困ってしまいますが。

早熟な天才は次々と名作を発表し、特に『鼻』は漱石に大絶賛された(写真提供/日本近代文学館)
早熟な天才は次々と名作を発表し、特に『鼻』は漱石に大絶賛された(写真提供/日本近代文学館)
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進士素丸

しんじ・すまる●1976年2月生まれ。ライター・文筆家。「文豪どうかしてる逸話集」(KADOKAWA)著者。文豪や歴史にまつわるツイートも話題に。
雑誌・ウェブ媒体などに寄稿しつつ、映像制作やデザインなども手掛ける。

Twitter●@shinjisumaru

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