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ブンゴウ泣きたい夜しかない。~文豪たちのなんだかおかしい人生劇場
「文豪」というと皆さんはどのようなイメージを思い浮かべるでしょうか。
いつも気難しそうな顔をしてて、メガネかけてヒゲなんか生やしてて、伊豆あたりの温泉旅館の一室で吸い殻山盛りの灰皿を脇目に、難しい小説なんか書いてる…。そんなイメージを持たれがちな彼らですが、実は現代人とたいして変わらないような、実に人間臭い面もたくさんあるのです。

さて、今回は、日本初の女性による女性のための雑誌『青鞜』を創刊、女性の解放運動家として、これまた日本初の婦人運動団体である新婦人協会を設立。第二次世界大戦後は反戦と平和運動にも積極的に参加したフェミニストの元祖ともいうべき、平塚らいてうの生涯を前後編に分けてお届けします!

【文豪とフェミニズム】わたくしは女でも男でもない、それ以前のものですからー平塚らいてう誕生物語(前編)

女性解放運動家・平塚らいてう、誕生。漱石の弟子・森田草平との心中未遂「塩原事件」とは?

平塚らいてう(ひらつか・らいちょう)
1886年2月10日 – 1971年5月24日
作家であり思想家、戦前戦後にわたって活動した女性解放運動家。東京都出身。女性による女性のための雑誌『青鞜』を創刊し、女性の政治的・社会的自由を確立させるための日本初の婦人運動団体として新婦人協会を設立。第二次世界大戦後は反戦平和運動にも積極的に参加し、1971年に85歳で亡くなるまで精力的に活動を続けた。

1908年3月21日、栃木県塩原温泉近くの雪深い山の中をとある男女が彷徨さまよっていました。
心中しようと死に場所を探していたこの二人、男の名前は森田米松、女の名前は平塚はる。森田米松は帝大卒の文学士であり当時の文壇のトップにいた夏目漱石の門下生で、のちに森田草平と名乗る人物。平塚明は明治政府の高級官吏の令嬢であり、女流文学者を育てる目的で結成された「閨秀文学会」に所属する女生徒で、のちに平塚らいてうと名乗り、近代日本女性運動の発端となる人物です。その「閨秀文学会」で講師を務めていた森田が、らいてうの書いた小説を褒めたことが二人が急接近するきっかけとなります。
しかし森田は妻子のある身でした。

のちに森田がこの一件を題材に書いた小説『煤煙』によると、森田はらいてうに「私は芸術家だ。美の使途だ。人は死ぬ瞬間が最も美しいからあなたを殺す」などと言ったといいます。普通の人なら即、通報案件ですが、らいてうは違います。「やるという気なら行くところまで行ってみるばかり」となぜか乗り気で「先生は、相変わらず顔色がわるく、何かおどおどとして元気がないのでしたが、私はすべてからとき放たれたような軽々とした思いで、心はしきりにはずんでいました」と後に書いており、森田の方が、言い出したはいいけど引っ込みがつかなくなったようにも見えます。

漱石の門下生だった頃の森田草平(写真提供/日本近代文学館)
漱石の門下生だった頃の森田草平(写真提供/日本近代文学館)

わたくしは女でも男でもない、それ以前のものですから、と、らいてう

らいてうは友人に宛てた遺書に「恋のため人のために死するものにあらず。自己を貫かんがためなり。自己のシステムを全うせんがためなり」と書いており、そもそも、らいてうにとってこの心中は、どうせ結ばれぬ恋ならばいっそあの世で……といったものではなかったようです。

当時から宗教哲学に興味を持ち、禅道場に通っていたらいてうは「死」そのものに関心があったのかもしれません。そんならいてうを他所に、森田の方はらいてうが処女であるかどうかがとっても気になるらしく、「あの女の大胆さはどうも男性と言うものをすでに知っている女性」だと言ったかと思うと「いや、処女だ。どうしても処女に相違ない」と言い出したりする情緒不安定っぷりで、らいてうを待合に誘い出し男女の関係を迫りますが、「そんな要求をわたくしになさっても無駄です。わたくしは女でも、男でもない、それ以前のものですから」とばっさりと拒絶されます。

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進士素丸

しんじ・すまる●1976年2月生まれ。ライター・文筆家。「文豪どうかしてる逸話集」(KADOKAWA)著者。文豪や歴史にまつわるツイートも話題に。
雑誌・ウェブ媒体などに寄稿しつつ、映像制作やデザインなども手掛ける。

Twitter●@shinjisumaru

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