2020.4.17
徳川家康―乱世を終わらせた最強のサバイバー 律義者orたぬき親父?
律義者から天下人へ
天正十年六月、信長が本能寺で斃れると、たまたま上方に滞在していた家康は、伊賀越えのルートで命からがら領国に逃げ戻ります。
その後、火事場泥棒よろしく混乱する甲斐・信濃を併呑し、信長の遺児・信雄と組んで小牧・長久手で秀吉に挑みます。戦場では勝利を得たものの、秀吉の巧みな外交手腕に信雄が脱落、家康も秀吉に膝を屈することとなります。
秀吉が天下を統一すると、家康は小田原北条氏の旧領を与えられ、江戸へ移りました。石高はおよそ二百五十万石。豊臣政権における最大の大名です。
家康の胸中には、はるかに格下だった秀吉に臣従する屈辱と同時に、安堵もあったことでしょう。このまま豊臣家の天下が続けば、秀吉の機嫌を損ねない限り徳川家は安泰です。秀吉としても、武力で家康を潰すのが難しいことは理解していました。ならば、危険を冒して家康の勢力を弱めるよりも、関東・奥羽の押さえとして家康を利用した方が合理的です。双方の利害は一致し、ある程度の緊張をはらみつつも、豊臣・徳川の関係は安定していました。
この時期に、「派手好みで才気煥発の秀吉に比べ、地味で愚鈍だが、律義者の家康」という印象をことさら演出しているように見えるのも、家康の処世術の一つでしょう。
秀吉最大の失策である朝鮮出兵でも、家康は渡海を免れました。自らの命で関東に移った家康に、さすがの秀吉も遠慮したのでしょう。
豊臣政権下での家康のイメージとして、「秀吉の次の天下を虎視眈々と狙っていた」というものがよく見られます。家康がどの段階から天下を狙っていたかは、心の中の問題であり、明らかにするのは難しいでしょう。ただ、少なくとも秀吉の存命中は、天下を狙う野心は無かったのではないでしょうか。
妻子を犠牲にしてまで築き上げ、ここまで守ってきた徳川家二百五十万石。そのすべてを失いかねない賭けに出る意思があったとは思えません。恐らく、秀吉の存命中に家康の頭にあったのは、このまま大過なく秀吉に仕え、豊臣政権のナンバー2として徳川家を存続させることでしょう。
しかし、朝鮮出兵の失敗と、秀吉の後継者と目されていた豊臣秀次の粛清によって、豊臣政権には暗雲が漂いはじめました。そして慶長三年、秀吉が没します。豊臣家を継いだ秀頼は幼く、気づけば家康は、豊臣政権内で最大の実力者となっていました。
家康は不安を覚えたことでしょう。五大老の筆頭とはいえ、外様である自分は石田三成、宇喜多秀家ら豊臣恩顧の諸将にとっては最も警戒すべき存在です。遅かれ早かれ、彼らが家康排除に動くであろうことは目に見えていました。
そこで家康は、五大老筆頭の地位を盤石なものにすべく動きました。伊達政宗や加藤清正らの諸侯との関係を強化するため、婚姻を結ぼうと企てたのです。豊臣家の許可無く諸侯が婚姻関係を結ぶことは禁じられていましたが、なりふり構ってはいられません。
しかし、この策は裏目に出ました。前田利家、石田三成を中心に家康弾劾の動きが起こり、両者の間で一触即発の事態となったのです。この時、家康を除く四大老五奉行は全員家康を弾劾する側に回り、加藤清正、細川忠興らの武断派大名たちも利家に付きました。
情勢は家康不利で、もしもここで戦端が開かれれば、後の江戸幕府は存在しなかった可能性が高いでしょう。余談ですが、本連載の第一回で取り上げた織田有楽斎もなぜか、伏見の家康邸に馳せ参じています。それが家康をどれほど勇気づけたか、まったくもってわかりませんが。
さて、ぎりぎりの交渉でどうにか戦闘は回避されたものの、豊臣政権内の亀裂は決定的となりました。前田利家が没すると、加藤清正、福島正則ら武断派の七将が三成を襲撃します。家康はこれ幸いとばかりに事態収拾に動き、三成を蟄居に追い込みました。ちなみに、この時に三成が家康の屋敷に逃げ込んだというのは間違いで、実際は伏見城内にある自身の屋敷に立て籠もったようです。
利家が没し、三成が失脚したことで、家康は誰はばかることなく実権掌握に動きはじめました。「家康は伏見にあって天下の政を見よ」という秀吉の遺命を無視して伏見城から大坂城に移り、利家の死後に大老の座に就いた利長に謀叛の嫌疑をかけ、人質を差し出させます。
さらに、大老と奉行による合議制を無視して、独断で諸侯に領地の加増を行います。五大老のうち、前田利長は屈伏、宇喜多秀家は国許の内紛に忙しく、毛利輝元は家康に恭順の意を示しました。残るは、会津の上杉景勝です。
家康は、会津に帰国した景勝が謀叛を企てていると難癖をつけ、上洛して弁明するよう求めます。これに対して、上杉家の直江兼続は家康の上洛要請を拒否、逆に家康を挑発しました。家康はこれに激怒(あるいは激怒したふりを)し、諸侯に会津征伐を号令します。この時の兼続の返書が、名高い「直江状」です。創作の疑いもありますが、内容にそれほどの差異は無いでしょう。
慶長五年六月、大坂を出陣して会津へ向かう家康の心境は、晴れ晴れとしていたでしょう。上杉景勝を倒せば、もはや徳川家に抗し得る大名はいません。上杉家は強敵ですが、秀頼の代理として征伐に赴く家康は、圧倒的な兵力を擁しています。負ける要素はほぼ皆無。上杉家の滅亡、あるいは降伏は時間の問題でした。
この年、家康は五十九歳になっています。会津攻めを人生最後の戦とする意気込みだったでしょう。そこへ飛び込んできたのが、三成挙兵の報せでした。
ところで、「家康は、会津征伐に出ている隙に三成が挙兵すると読んでいた。あえて大坂を離れることで反徳川派を決起させ、一網打尽にすることを狙っていた」と言われることがあります。しかしその後の家康の行動を見ると、その見立てにはちょっと無理があるように思われます。
七月、三成挙兵の報を受けた家康は、すぐには会津征伐を中止せず、自らも江戸を発って北上しています。三成方が小規模であれば、追討軍の一部を西上させるだけで十分と判断したのでしょう。しかし、毛利輝元が大坂城に入ったと知ると、会津攻めを中止し、麾下の軍に反転を命じます(有名な小山評定は、近年では江戸期に創作された架空の軍議とされています)。
三成の挙兵に毛利輝元、さらには増田長盛、長束正家、前田玄以の三奉行まで加わったことに、家康は衝撃を受けたことでしょう。そしてより深刻なのが、三成らが大坂城と秀頼の身柄を押さえたことでした。
三成らは「内府ちがひの条々」を諸侯に送り、家康の非を鳴らします。これにより、家康は豊臣政権のナンバー2という地位を追われ、賊軍とされました。北に上杉、西には三成、毛利ら西軍主力。賊軍とされたことで、麾下の福島正則、黒田長政ら豊臣恩顧の諸将もいつ寝返るかわからない。三方ヶ原の戦いや伊賀越えに並ぶ、家康最大の危機でした。
八月五日、家康は江戸へ戻り、月末までとどまっています。重い腰を上げたのは、先発した福島、黒田らが岐阜城を攻略したとの報せを受けた後です。ここで初めて、家康は彼らが自分に味方するとの確信を得たのでしょう。つまり、家康はこの時点まで疑心暗鬼に陥り、江戸から動くに動けなかったのです。三成の挙兵を予期していたにしては、あまりにお粗末ではないでしょうか。
戦争の基本は、敵を分断し、各個撃破することです。家康は秀吉の死後、この基本に忠実に事を運び、半ば以上成功していました。三成を失脚させ、毛利、前田を屈伏させ、上杉を攻める。これで、反徳川派は完全に潰えるはずでした。しかし、三成は復活し、毛利も再び反徳川に回った。家康にとっては、大きすぎる誤算です。結果論ですが、三成が七将に討ち取られるか、家康が毛利を徹底的に叩いておくかしていれば、これほどの窮地に陥ることは無かったはずです。
九月十五日に行われた関ヶ原本戦については、改めて説明するまでもないでしょう。決戦はたった一日で西軍の敗走という形で幕を閉じました。合戦そのものの経緯については諸説ありますが、小早川秀秋、吉川広家を抱き込んだ時点で、家康の勝利はほぼ確定していました。
とはいえ家康にしてみれば、薄氷を履むような勝利だったでしょう。そもそも、大規模な決戦を行うこと自体が、家康にとっては想定外だったのです。