2020.4.17
徳川家康―乱世を終わらせた最強のサバイバー 律義者orたぬき親父?
家康、戦国デビュー
尾張を発った竹千代は、今度は駿河国駿府へ送られ、今川家の人質となります。
従来、家康は今川家人質時代の苛酷な処遇で辛酸を嘗め、忍耐力を養ったというような説明が多くなされてきました。
しかし、義元は竹千代に将来の三河国主として期待をかけ、厚遇していたようです。竹千代の師に自らの軍師・太原雪斎を付け、竹千代が元服する際には自ら烏帽子親を務めました。また、一族の関口氏純の娘(築山殿)を娶わせてもいます。後の天下人・徳川家康の武人としての基礎は、この今川時代に築かれたと見ていいでしょう。
ちなみに、今川家人質時代には、竹千代が気に入らない近習を縁側から突き落としたというエピソードが残っています。元の性格が短気だったということもあるでしょうが、幼い頃から父母の下を離れ、人質という境遇で生きるストレスは相当なものがあったと思われます。
さて、成長した竹千代改め松平元康は、永禄三年、義元に従って尾張攻めに参戦します。時に、元康十九歳。今川傘下の将としてすでに初陣を終え、正室・築山殿との間には嫡男の信康も生まれていました。
元康は意気込んでこの戦に臨んだはずです。ここで活躍すれば、今川家中での三河衆の立場は向上し、今川家の代官が治めている岡崎城も返還されるかもしれないのです。また、後々三河の一族郎党をまとめていくためにも、武人としての才覚を示しておかねばなりません。
五月十八日、元康率いる松平軍は、敵中に孤立した大高城に兵糧を運び込み、翌十九日には織田方の丸根砦を攻め落とします。しかし同日、今川本隊は桶狭間山で織田軍の強襲を受け、義元は戦死してしまいました。
報せを受けた元康は、事の真偽をしつこいほどに確認し、情報が事実だと確信したところで、ようやく撤退を開始します。十九日深夜、大高城を出ると、翌二十日に岡崎の大樹寺に入り、岡崎城の今川軍がどう動くかを見定めます。岡崎在城の今川軍が引き上げると、元康はついに岡崎城への帰還を果たしました。
この時元康は、松平家の菩提寺である大樹寺で腹を切ろうとしたものの、住職の登誉上人に諫められ、思いとどまったという話が残っています。実際に切腹を考えたかどうかはともかく、よほど切羽詰まった心境であったことは想像に難くありません。
さて、桶狭間の戦いの後、元康は義元からもらった「元」の字を捨てて家康を名乗り、嬉々として独立を果たしたかのようなイメージをお持ちの方も多いでしょう。
しかし、元康は義元の死後もしばらく今川方にとどまり、翌年四月に反今川の旗幟を鮮明にするまでは、実際に織田軍と戦ってもいます。信長との同盟締結は永禄六年三月で、家康への改名にいたっては、桶狭間の戦いから三年後のことでした。
軽挙妄動を避け、慎重過ぎるほど慎重に事を運ぶ。こうした、後年の家康に見られる行動原理がこの頃から垣間見えます。庇護者でもあった義元の死によって、大名としての自覚が芽生えたのでしょうか。少年時代に見えた短気さは、すでに影をひそめていました。
今川家の支配を離れ戦国大名として自立した家康ですが、すぐに最初の試練が訪れました。三河一向一揆です。
永禄六年九月、本願寺教団の拠点・本証寺を中心に蜂起した一向一揆には、後に家康の謀臣となる本多正信など、多くの松平家家臣が参加します。家康は激しい戦いの末、翌年二月にようやくこれを鎮圧しました。精強さと主君への絶対的な忠誠で知られる三河武士ですが、その初期には、家康と血で血を洗う抗争を繰り広げていたのです。
三河武士に限らず、戦国時代の武士は、自らの主君を血統ではなく、実力で選んでいました。実際、家康の曽祖父に当たる信忠は、「乱心」を理由に家臣によって強制的に隠居させられ、祖父の清康も家臣に殺されています。家康は、主君の殺害すら厭わない三河武士という危険な集団を、自らの実力でねじ伏せ、忠誠を誓わせたのです。
こうして、ようやく国内を安定させた家康は、姓を徳川と改めます。しかし、試練はなおも続きました。
織田信長が越前朝倉氏を攻めた金ヶ崎の戦いでは、浅井長政の裏切りを受けていち早く退却した信長に置き去りにされ、武田信玄が上洛戦を始めると、信長からの形ばかりの援軍と共に三方ヶ原の戦いで惨敗を喫し、存亡の淵に立たされました。信玄の病没がなければ十中八九、ここで徳川家の命運は尽きていたことでしょう。
信玄に敗れた際の家康には、いくつかの情けない逸話が残されています。
敗走中、恐怖のあまり脱糞した。逃げる途中、茶屋で餅を食い逃げした。敗北の口惜しさを忘れないために自画像を描かせた、などなど。しかしこれらの逸話は、どれも後世の創作のようです。
それにしても、星の数ほどいる戦国武将の中でも、脱糞エピソードを持つ者はそうそういません。さすがは天下人、逸話の情けなさも群を抜いています。
謎だらけの信康事件
さて、信玄の病死で窮地を脱し、長篠の戦いで武田軍にリベンジを果たした家康に、またしても難題が降りかかりました。いわゆる「信康事件」です。まずは信頼できる史料を基に、事件の経緯を整理してみましょう。
家康と正室・築山殿の間に生まれた信康は、織田信長の娘・徳姫を妻に迎えていました。しかし、徳姫と築山殿の折り合いは悪く、やがて信康とも不仲になっていきます。天正七年七月、徳姫は信長に手紙を認め、信康の非行、さらには築山殿の武田家への内通を訴えました。
これを受けた家康は急遽、信長の下へ重臣の酒井忠次を派遣します。信長は忠次に対し、「信康は、家康殿の好きなようにされよ」と告げました。そして八月、家康は家臣に築山殿を殺害させ、九月には信康を自害させます。
従来、この事件は「家康は、信康を切腹させろという信長の無理難題にも歯を食い縛って耐え、妻子を犠牲にすることで徳川家を守った」といった説明がなされてきました。しかし、信長は「好きにしろ」と言っただけで、切腹させろとは明言していません。築山殿については、名前も出していない。ではなぜ、家康は二人を死に追いやったのか。
この謎が多すぎる事件に対して、近年では別の説も唱えられています。
どうやら、家康と信康の間には、元々確執があったようです。事件当時、徳川家では浜松城の家康とその直臣団が遠江を、そして岡崎城の信康とその配下の岡崎衆が三河を、それぞれ治めていました。この体制が、派閥の形成に繋がりました。
対立はやがて、岡崎衆が家康を排し、信康を当主に立てることを画策するまでにエスカレートします。武田家と連絡を取っていたのも、家康排除後に織田家との同盟を破棄し、武田家と結ぶことを考えての布石でしょう。三河一向一揆を経て一致団結したかに見えた三河武士たちですが、必ずしも家康に心服していたわけではなかったのです。
この動きに気づいた家康は先手を打ち、信長のもとへ酒井忠次を派遣します。家康の息子とはいえ、信長の娘婿でもある信康を勝手に処断することはできません。そして、酒井忠次への信長の返答が、「家康殿の好きになされよ」という言葉でした。
もちろん、我が子を死なせることに、家康は葛藤を覚えたことでしょう。廃嫡して追放、あるいは幽閉という、穏便な手段もあります。しかし信康が生きている限り、徳川家分裂の不安要素が消えることはありません。もしも信康と岡崎衆が蜂起して武田軍が介入するようなことになれば、徳川家の滅亡は必至です。
家の存続を取るか、我が子の命を取るか。家康は亡き父・広忠と同じ選択に直面し、父と同じ結論に達します。違うのは、我が子の命を自ら奪ったことでした。
かくして、家康は信長からの強要ではなく、自らの意思によって、信康に自害を命じたのです。
家康が築山殿まで殺害したのは、彼女が信康の側に付いていたからでしょう。むしろ、築山殿が家康排除を主導していた可能性すらあります。家康が今川家から離反したために、築山殿の父は殺害されました。彼女が家康を憎み、我が子・信康を当主に据えようと考えていたとしても、おかしくはありません。
あくまで個人的な見解ですが、こちらの説の方が、信憑性があるように思えます。実質は配下同然でも、織田家にとっての徳川家は名目上、対等な同盟相手でした。その跡継ぎに腹を切るよう命じれば、徳川家の離反を招きかねないのです。酷な言い方ですが、そんな危険を冒してまで殺す価値が、信康にあったとは思えません。
事の発端となった徳姫の手紙(そもそも、手紙そのものが現存していません)についても眉唾ものです。いくら不仲とはいえ、夫を讒言するような手紙を出したことが露見すれば、激昂した信康やその家臣たちに何をされるかわかったものではありません。戦国の嫁入りは、まさに命懸けでした。
その徳姫は、信康自害後に織田家へ送り返され、京都に居住しました。家康が天下を獲った後には、家康四男の松平忠吉から、千七百石もの領地を与えられています。徳姫が家康の嫡男を死なせる契機を作ったのだとしたら、この処遇は説明がつかないでしょう。
実際のところ、徳姫と信康の夫婦仲はどうだったのか。それを推し測る史料は存在しません。しかし徳姫は信康の死後、徳川家から扶持を受け、再嫁することなく七十八歳の長寿を全うしています。