2024.12.10
親孝行する人は必ずしも幸せではない 第4便 娘と息子
クォンさんから村井さんへ
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理子さんへ
今、私は韓国の慶尚北道にある安東という都市で一ヶ月を過ごしています。安東はソウルよりかなり南で、釜山の少し北側に位置する内陸の町です。世界遺産である河回村と安東国際仮面舞フェスティバルが有名で、最近では日本でも知られているドラマ『ミスター・サンシャイン』のロケ地としても注目を集めています。韓国の伝統的な文化が色濃く残る町で自然の風景が美しく、人口が少ないため、とても静かで穏やかな雰囲気が漂っています。私はこの町で女子校に通っていましたので、懐かしさと親しみを覚える場所でもあります。
それから、韓国には、名字に「本貫」というルーツを示す概念があります。これはその名字の発祥地を表し、二十年ぐらい前までは名字と本貫が同じだと同じ家系と見なされて、なんの血のつながりがなくても結婚ができませんでした。私は安東を本貫とする「安東権氏」に属しています。そんな安東で過ごしているので、精神的にもとても安らぎを感じています。その安らぎのなかで、東京で一ヶ月間暮らしたときの話を本にするための原稿を書いています。
翻訳の仕事、子育てやわんちゃんの世話、親の介護などで、まるで寒い地方で毎日降り積もる雪をひたすら掃き続けるように慌ただしく過ぎたこれまでの年月を振り返ると、今は本当に夢のような贅沢です。
まだご主人や子どもたちやわんちゃんのお世話、義両親の介護で奮闘中の理子さんには、自慢しているみたいで申し訳ないですが、理子さんもいつかそんな時間を卒業して、きっと、私のように一人の身で、自分の望む環境で心ゆくまで好きなことに打ち込める日が訪れると信じています。私も今年ようやくその段階を卒業したばかりで。そうそう、ちょうどこの連載が公開される十二月十日が母の一周忌だから、自由になったのも一周年になりますね。
それはそれとして、〝運動好きな十八歳の双子の息子さん″と聞いただけでも、とても頼もしく感じられます。世の中、怖いものなんて何もなさそうじゃないですか。うらやましいです!うちはこの前、夜中に虫一匹が見つかって大騒ぎになりました。笑。
そうなんです、十月に靜河とタイのチェンマイに行ってきました。チェンマイは初めてでしたが、惚れ惚れ。一時期、韓国で「チェンマイでの一ヶ月暮らし」が人気だったことがありますが、実際に行ってその理由がわかりました。タイマッサージが1時間で300バーツ、1250円!食べ物は安くて人は優しいし、観光地は多いし。現地の人のように馴染んで楽しんでいる私に、娘が「お母さんのパーソナルカラーはタイだね」と言っていました。韓国では着られなかった肩を完全に露出したワンピースを着て、タイで買ったエコバッグを持ち、タイマッサージを受け、おしゃれなカフェに行き、ブックカフェで翻訳もして。この地でも一ヶ月暮らしてみたいな、と思いました。引きこもりだった私がどうしたのでしょうね。
理子さんがおっしゃっる通り、娘は他の子より親孝行なほうです。でもね、いくらいい子でも、いくら大きくなっても子どもは油断禁物。ある日、ひとりで泣いている声が靜河の部屋から聞こえたので、訳を聞いたんです。そうしたら、「私が望んでいるのはただ、お母さんが幸せであることだけ。お母さんが幸せになるためならお金を使うことは惜しくない。でもお母さんを幸せにしなきゃいけないというプレッシャーがとてもつらいの」と言うのです。まるでハンマーで殴られたような気分でした。その気持ちは誰よりも私がよくわかっていたからです。自分で言うのもなんですが、私も親孝行な娘だったので。親に頼まれたわけでもないのに、自分が好きで親孝行をしていましたが、それでも親孝行しなければと思ってしまう状況を重く感じることがよくありました。それを娘も感じていたのだと知り、もう、複雑な気持ち。
理子さん、そのとき私は改めて気づきました。親孝行する人は必ずしも幸せではないことに。〝親は親で自分の人生を生きるだろう、私は私だよ″って何も考えずに生きる人が幸せな人なんだと。だから将来、もしも双子の息子さんが理子さんに何もしてくれなくても、「ああ、息子たちは私のこと気にせずに気楽に幸せに暮らしているんだ、よかった」と思ってください。
私はなるべく娘に気を遣わせないよう、ひとりでも幸せに生きる方法を模索するつもりです。この、ソウルではない他の都市での一ヶ月暮らしもその方法の一つかも。親孝行DNAを持って生まれた者は一生の首枷のように親を背負って歩くかのもしれません。DNAは人間のなかにあるけれど、人間がどうすることもできないものですね。だから、なるべく娘の荷物にならないように健康に気をつけながら、もっとバリバリ働きたいと思います。精神的にも経済的にも頼らない親になることを将来の夢にします。
東京での一ヶ月暮らしのことを書いていたら、また東京が懐かしくなりました。あのときは寒くて相当苦労したのに。一番、懐かしいのは追分だんごかな。追分だんごは、東京に行く前に翻訳した益田ミリさんの『今日のおやつは何にする?』に出てきて知りましたが、めちゃくちゃおいしかったんです。
いつか新宿の紀伊國屋書店でお会いして、道の向こう側にある追分だんごのお店でおいしいおだんごを食べましょうね。
南姬
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*次回は1月7日(火)公開予定です。
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