2024.12.10
親孝行する人は必ずしも幸せではない 第4便 娘と息子
300冊以上の日本文学作品を韓国語に翻訳されたクォンさんのエッセイ『ひとりだから楽しい仕事』『翻訳に生きて死んで』を村井さんが読んだことがきっかけで、メールのやり取りが始まりました。
翻訳家であること、介護経験をしていること、愛犬を亡くしたこと、そして50代女性という共通点が次から次へと出てきて…語り合いたいことが尽きないふたりの、ソウルと大津の間を飛び交う往復書簡エッセイです。
☆第1便と、第2便は韓国語でも読めます!
バナーイラスト 花松あゆみ
第4便 娘と息子
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ナミさんへ
娘さんの靜河さんと再訪された仙台、とても楽しい時間を過ごされたようで、私までうれしい気持ちになりました。まだ幼かった靜河さんと一緒に暮らしていた懐かしい場所を巡る旅、いろいろとハプニングがあったそうですが(ホテルの予約ミスがあったとか。でも急きょ予約したホテルの美しいこと!)、二十二年前の厳しかった暮らしをいたわるための娘さんからの贈り物の旅行だったとあり、その靜河さんの優しさに感動しました。そしてうらやましくもありました。
ナミさんにはすでにお伝えしていますが、わが家には十八歳になる双子の息子たちがおります。二人とも身長は私をとっくに超えていますし、運動が大好きで暇があればダンベルを持ち上げているような男子たちですので、囲まれるとまるで介護をされているような気持ちになります。この子たちが例えば数年後、「母さんをいたわるために、温泉に連れて行ってあげるよ」と言うかどうか。その確率は低いとまでは言いませんが、どちらかと言えば、私のほうから、
「温泉に行くから一緒に行かない?」
「(暇だし)ええで」
というパターンになるのではないか。まるで姉妹のようなナミさんと娘さんの関係性に、武骨な男子を育てている私は憧れを抱くのでした。そうでした、大型犬も一匹いますから、なかなか旅行にも行けません……。
前回のお手紙には、ナミさんと娘さんが訪れた場所について、そしてそこで感じたことなど、詳しく書いてくださってありがとうございました。母と娘の旅行に、私も同行させて頂いたような気持ちです。
仙台駅近くの商店街の書店に、ナミさんの『翻訳に生きて死んで』、そして私の『ある翻訳家の取り憑かれた日常』があったそう。その書店さん、最高です。心から感謝。ナミさんが前回のお手紙で書いて下さったように、まさに馬車馬のように翻訳してきた、そして願わくはこれから先も、翻訳し続ける私たち〝前世が双子チーム″の作品を置いてくださっているなんて! 今度仙台に行くチャンスがあったら、私もきっときっと訪れてみます。どこのお店だったか、今度こっそり教えてください。
そしてせんだいメディアテーク。インターネットで検索して施設を詳しく見てみたら、本当に素敵な場所。あの美しい場所と、幼き日々の靜河さんの思い出が重なっていれば、再訪はなおさらナミさんの心に響いたのではないかと思います。そして七歳の靜河さんの手を引いて歩いていた施設内の図書館に『ひとりだから楽しい仕事』と『翻訳に生きて死んで』があったということ。二十二年の時を経て、邦訳された著書を見つけられたなんて、どれだけ心が震えたことでしょう。仙台に暮らしていらした頃は、日々、生きることだけでもご苦労があったのではないでしょうか。そんなたった二人の暮らしがスタートした場所に、立派に成長された靜河さんとナミさんが戻られたなんて、まるでドラマのワンシーンのようです。
靜河さんが通っていた幼稚園、小学校が今もあったそうですね。子どもが小さいときに通っていた場所を再訪するって、不思議な感覚ですよね。ついこの間のことなのに、実は長い時間が経過していると痛感します。私も時々、息子たちを車に乗せて二人が通った小学校の前を通ることがありますが、「あの担任、それにしてもむかついたな」などという苦い思い出がよみがえったりもいたします。
そして領事館! なんと移転していたということですが、それでも、あの日のナミさんの気持ちはきっとどこかをふわふわと漂っていたでしょう。ナミさんと成長した靜河さんを、どこからか見守っていたのではないでしょうか。そしてもしかしたら、風船のように弾けたかもしれません。あの日のナミさんの痛かった心、遠くへ飛んで行け! とばかりに。
離婚届を出した日にカレーを食べた〈ジョナサン〉、なんと閉店。残念過ぎる! でも、味の記憶というものは不思議と消えないものです。靜河さんのなかに、今でもあのビーフカレーが残っているのは、美味しさもさることながら、幼いながらも靜河さんのなかに、これから変わるかもしれない人生や、暮らしに対する新たな気持ちのようなものが芽生えたからなのかもしれません。私の勝手な想像ですが、そんなきっかけのビーフカレーだったとしたら、あの日の〈ジョナサン〉には二人を応援する魔法がかかっていたのかもしれません。
そして驚きだったのは、ナミさんと靜河さんが多賀城市をとても気に入ったという点です。仙台に行かれるとメールで教えてくださったナミさんに、私はなんの気なしに「実は多賀城に縁があるのです」と書きました。兄が死んだ場所なんですといきなり書いたらおかしな空気になってしまうかもしれないと感じつつも、実は兄が亡くなりまして……と書きました。ビール工場へのシャトルバスを待つ間、ナミさんが立ち寄った多賀城市立図書館は、兄の遺体を荼毘に付した私が、体に複数本の矢が刺さった状態で(あまりの疲労感にズタズタ)コーヒーを飲んだ場所なのです。あまりにも立派な図書館で、呆然としながら館内を見上げた記憶があります。小さいお子さんとお母さんたちが自由に過ごしていた空間でした。私はそんな親子の姿を眺めながら、兄と兄の子どもも、ここに来たことがあっただろうかと考えていました。妙に晴れた美しい日だったことを記憶しています。
それにしても、娘さんとチェンマイ旅行にも行かれるとのこと。なんとうらやましい! 私なんて、仕事も山盛りですけど、なにせ義理の両親の介護が大変で年内は身動きが取れそうもありません(ナミさんもお母様の介護で苦労されましたよね)。
でも、これも人生です。ナミさんが書いて下さった通り、未来の私がどうにかするでしょう。考えてみれば、私の人生はいつもこんな感じで動いていたのでした。未来は未来の私がどうにかする。私だったらできる、必ず。こうやって私は歯を食いしばって翻訳をして生きてきました。……間違っていたらすいません。でもきっと、ナミさんもそうですよね? 目の前にある仕事を、とにかくがむしゃらに片づけて生きてきた。そして気づいたら、今があったのではないでしょうか。そしてたぶん、私たちの人生はこれからもそんな感じかもしれませんね。目の前に辿りついてくれた一冊と向き合って、とにかく、ひたすら。そうなってくれるといいなと、私は勝手に思っています。
チェンマイのお話も、聞かせてくださいね。
寒くなって参りました。どうぞご自愛くださいませ。
村井理子
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