よみタイ

離婚と死別、けれど街は美しかった 第3便 それぞれの仙台

クォンさんから村井さんへ

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 理子さんへ

 仙台から帰ってきて、幸せな旅の余韻に浸りつつゴロゴロしていたら、理子さんからメールが届きました。絶妙なタイミングのメール、ありがとうございます。あぁ、ところで、メールを読んでいて鳥肌が立った部分がありました。今こうしてお返事を書きながらも、不思議なご縁にゾクゾク。きっと二つの地名が理由だと思います。くわしくはもう少しあとで書きますね。

 私が翻訳した本は三百冊といわれていますが、なにぶん数字に弱く、訳書が十冊を超えたあたりから数えていないので、正確に何冊なのか実はよくわかっていません。三百という数字の出どころは、オンライン書店の著者プロフィール欄に掲載されているデータです。今このお手紙を書くためにチェックしてみたら、三百五十八種と出てきますね(〝冊〟ではなく、〝種〟だという事実)。私は絵本や児童書の翻訳も多いんです。小説やエッセイにしても、理子さんが翻訳している作品のように分厚い本ではないから、冊数が圧倒的に多くなったのだと思います。それに、娘(小二のときから二人暮らし)と愛犬(娘が小五のときにお迎え)がいたので、ほとんど外出することがありませんでした。友だちに会うのは年に一~二回? ほぼ年中無休で翻訳ばかりしていた気がします。家事も最低限で済ませていました。掃除はまとめて一気に、食事は適当にデリバリー。おや二人きりの家庭だから可能だったことです。理子さんは三人の男性と大型犬のお世話をしながら一体どうやってそんなに多くのお仕事をこなしていらっしゃるのか、こちらこそいつも驚異の念を抱いています。重要なのは冊数ではなく、理子さんも私も、翻訳を始めて以来、馬車馬のようにがむしゃらに働いてきたという事実ではないでしょうか(笑)。私の引きこもりに近い生活は、娘が就職し、愛犬が虹の橋を渡ったことによって終わりました。昨年末、認知症だった母も亡くなって、育児の義務、介護の義務から解放され、最近はどんな新しい場所で1ヶ月ワーケーションをしようかな、ということばかり考えています。

 仙台三泊四日の旅は、本当に楽しかったです。景色もきれいで、食べ物もおいしくて、人も親切で。個人的なゆかりを抜きにしても、これまでに行った日本旅行の中でいちばんよかったというのが私と娘の共通した感想です。初日は、二十二年前の貧しい暮らしをいたわる贈り物として娘が奮発してくれた〈松島温泉 松島一の坊〉に泊まりました。娘のミス(姉妹店を予約していた)で急きょ当日予約することになり、バスタブもない最安値の部屋に一泊七万七千円を支払うという冷や汗もののハプニングもありましたが、部屋からの眺めもお食事も温泉もこの上なく素晴らしくて、出血大出費のことも忘れて幸せに過ごしました。
 残りの二泊は仙台駅近くに宿をとって、思い出の地を心ゆくまで巡りました。商店街に書店があったので、もしやと思って入ってみたら、『翻訳に生きて死んで』が置かれていたんです。東京でもいろいろな書店で自分の著書を見ましたが、仙台で対面する気分は格別でした。理子さんもおっしゃったように、この本の「シングルマザーになった日」は仙台でのエピソードじゃないですか。心の底からウルウル。あっ、それから理子さんの『ある翻訳家の取り憑かれた日常』と私の本が並んでいたので、やっぱり私たちってご縁があるのね、と思いました。

仙台市内の書店で、隣り合わせに置いてあるクォンさんと村井さんの本
仙台市内の書店で、隣り合わせに置いてあるクォンさんと村井さんの本

 次に訪れたのは、せんだいメディアテークです。いちばん記憶が鮮明で、思い出の多い場所なので、ガラス張りの建物が目に入ったとたん泣きそうになりました。仙台に引っ越した二〇〇一年、私たちはその年にできたばかりの真新しい施設を思いっきり楽しんだのです。ガラスの外壁と、真っ赤な椅子が印象的な建物。今も変わらない姿を見て、思い出がまた次々とよみがえってきました。ここの図書館にも『ひとりだから楽しい仕事』と『翻訳に生きて死んで』がありました。書架で二冊の本を発見したコンマ一秒後、二十二年前の記憶と涙が同時に頰を伝っていました。七歳の靜河の手を引いてここを訪れ、本を読んでいたあの頃は、二十二年経ったらこの書架に私の著書が並ぶなんて、神様にも想像できなかったのではないでしょうか。靜河はここで絵本を読み、幼稚園の頃、先生が読み聞かせをしてくれたことを思い出すと言いました。当時、靜河はその先生のをするように絵本を読んでいた時期があったんですよ。はきはきと読み上げて、ごくりと大きくつばを飲み、ゆっくりとページをめくる先生の姿が印象的だったのでしょうね。微笑ほほえましい思い出です。
 ほかに靜河が覚えていたのは、メディアテークの向かいにあるあまぐり専門店〈イシイの甘栗〉。「すごくおいしかったけど、お母さんはお金がなさそうだったから、買ってとは言わずに試食だけでガマンしていた」と話すのを聞いて、ちょっと涙が出そうになりました。私はもちろんはっきり覚えていますが、娘も覚えていたなんて。甘栗屋さんが今も同じ場所にあることを靜河は喜んで、千円のいちばん小さな袋入り甘栗を買いました。当時は三百円だったのに、めったに買ってあげられませんでした。甘栗は昔と変わらず、甘くておいしかったです。

 昔住んでいた家と、靜河が通っていた幼稚園と小学校にも行ったんですよ。時が止まったかのように何もかもが昔のままで、涙腺が緩みっぱなしでした。立町小学校には開校百五十周年の垂れ幕がかかっていました。古い木の下駄箱を初めて見たとき、本当に歴史が深いんだなぁと思いましたが、明治時代からある学校だったとは。転校するとき、担任だった大友先生が「どこにいても、きみはずっと先生の教え子だよ」とお手紙を書いてくださいました。わずかの間でしたが、靜河が立町小学校の生徒だった記録が百五十年の歴史の中に一行ぐらいは残っていることでしょう。
 学校のそばにある〈仙台市立町たんぽぽホーム〉の前を通ったとき、靜河が「私、ここ覚えてる!」と写真を撮って、「共働きのお家の子は、放課後ここに来てたんだよ」と言いました。なんと、二十二年前の下校中にもそこで靜河が同じ話をしたことがあったので、思わず鳥肌がぶわっ。
 最後に訪れたのは、あの韓国領事館です。理子さんが書いてくださったとおり、離婚届を出しに行って、やるせない気持ちになったところ。所在地までは覚えていませんでしたが、グーグルマップを見ながら探す靜河についていくと、青葉区役所がありました。せっかくなので、離婚の書類を出した窓口ものぞいておきました(どれもこれも思い出)。大雪の日に離婚する若い外国人の女に、区役所の職員さんはとても親切に優しく接してくれたのです。ところで、当時はここからさらにバスに乗って移動したのに、区役所の真横に建つ立派なビルが韓国領事館だというじゃないですか。ここだったっけ? こんなにきれいな建物じゃなかったはずだけど……と思っていたら、二〇〇六年に移転したのだそうです。大雪の中を行ったり来たりしながら昼休みが終わるのを待った、あの道にも行きたかったのに。心残りではありましたが、韓国領事館が立派になったことを喜びつつ(?)、聖地巡礼を終えました。そうそう、離婚届を出した日にビーフカレーを食べた〈ジョナサン〉はなくなっていました。すごく残念です。靜河は今でもビーフカレーを食べるたびに、あの日食べた〈ジョナサン〉の味と比べているんですって。あのカレーが、いちばんおいしいビーフカレーの味として記憶に刻み込まれているようです。

 さて、そろそろ私が理子さんのメールを読んで身震いした理由を書かなくちゃいけませんね。今回の旅行中、思い出の地以外で私と娘がいちばん感嘆して、いちばん気に入った場所は多賀城だったんです! 理子さんのメールに多賀城が出てきた瞬間、背筋に衝撃が走りました。
 私たちが多賀城を訪れたのは、靜河がインターネットでキリンビールの工場見学を申し込んだからです。目的地も知らずに娘についていくだけだった私は、電車の中でたずねました。「どの駅で降りるの?」「多賀城」。私は多賀城という地名をそのとき初めて聞きました。耳にしたことぐらいはあったはずなので、記憶に残っていなかっただけかもしれません。
 工場行きシャトルバスの発車時刻より早く多賀城に着いた私たちは、座れそうな場所を探して駅周辺を歩き回り、多賀城市立図書館を発見しました。椅子があればいいなというぐらいの軽い気持ちで入ってみたのですが、つた書店とスターバックスのある広い一階に驚き、図書館のとてつもない規模に仰天しました。二~三階の壁が蔵書で埋め尽くされたインテリア! もう感動も感動、感動しきりでした。ここでも靜河が私の著書を探したら、あったんですよ。こんな最高の図書館に、光栄にも。
 巨大図書館を見た感動も冷めやらぬまま、かわいらしいシャトルバスに乗って向かったキリンビール工場でもまた感嘆詞のオンパレード(笑)。広々とした空間に並ぶ数々の巨大な機械と貯蔵庫は、どれも新品みたいにピッカピカ。工場の周りも絵のような景観でしたが、どこに行ってもホコリひとつなく清潔でした。ガイドの前川さんにウグイスのような美声でわかりやすく解説をしていただき、すっかりキリンビールの虜になってしまいました。十分間の試飲タイムにいろいろなグラスが出てくると、文字どおり試飲程度に飲む参加者が多かったのですが、ビール好きな私たち母娘はグビッと一気飲み。理子さん宛てのメールに、仙台に行かれることがあれば多賀城市立図書館とキリンビール工場がおすすめですと書こうと思っていたら、先に理子さんから多賀城のお話が出てびっくりしました。四十七都道府県、広い日本の中で、私たちが同じ場所をピンポイントで訪れていたなんて! お兄さまが亡くなった場所が多賀城だったなんて! しかもですね、帰りに塩釜駅を通過したとき、ふと「塩釜ってどんなところなんだろう?」と気になって、その場で検索したんですよ。通り過ぎていく数々の駅の中で唯一〝塩釜〟だけが目に飛び込んできたのです。検索してから、娘に「塩釜っていうところにも寄ればよかったね」と言ったりもしたんです。理子さんからのEメールを娘に見せたら、多賀城と塩釜という地名に驚いて、「こんなことってある?」と叫んでいました。理子さんと私はあまりにも共通点が多いから、もしかしたら前世で双子だったのかもしれない、という話をしたことがありましたよね。ここまでくると、少なくとも家族だったのは確実だろうなと思えてきます(笑)。

 そうそう! 仙台で私がいちばん号泣した場面のことを書いていませんでした。本当に不思議なことがあったんです。昔と同じように娘と商店街の中にある回転寿司屋さんに行ったら、はす向かいのテーブルで当時の靜河と私ぐらいの年齢の母娘がお寿司を食べているじゃありませんか。二人の背格好とヘアスタイルまで、あの頃の靜河と私にそっくりなんです。お寿司を食べる手を止めてえつしてしまいそうでした。二組の母娘がはす向かいに座る様は、まるで過去と現在を同時に映し出す時空間の演出のように感じられました。信じられないようなシーンだったので、その母娘の後ろ姿をこっそり写真に収めておきました。胸の熱くなる場面が盛りだくさんの旅でした。牛タンもおいしかったし、ずんだもちもおいしくて、も絶品でした。仙台最高!

 お仕事に励んでいらっしゃる理子さんには申し訳ないのですが、実は明日からまた、娘とチェンマイ旅行に行きます。韓国はまた連休に入るので。ずっと年中無休の人生でしたが、社会人になった娘が連休のプランを練ってくれるおかげで旅行の機会が増えました。チェンマイを選んだのは、十年前に角田光代さんの『紙の月』を翻訳したからです。銀行員である主人公の梨花(映画では宮沢りえさんが演じていました)が顧客の預金を横領して逃亡した先がチェンマイでした。その本を訳した後、チェンマイに行ってみたいとたまに口にしていたのを娘が覚えていてくれたようです。このメールを書き終わったら、『紙の月』を再読するつもりです。

 たまった仕事が心配ですが、未来の私がこなしてくれるだろうと考えて、晴れやかな気持ちで行ってきます。次回もまた、おもしろいお話をやりとりしましょうね!

                                   ナミ

見学可能な多賀城市のキリンビール仙台工場にて
見学可能な多賀城市のキリンビール仙台工場にて
9月にクォンさんが撮影した多賀城市立図書館
9月にクォンさんが撮影した多賀城市立図書館
数年前に村井さんが撮影した多賀城市立図書館
数年前に村井さんが撮影した多賀城市立図書館

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*次回は12月10日(火)公開予定です。

日本語訳 藤田麗子
編集協力 小川優子

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それぞれに個性的な母たちを活写する話題作!

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クォン・ナミ(權南姬)

クォン・ナミ(權南姬)
1966年、大邱生まれ。韓国を代表する日本文芸の翻訳家でエッセイスト。主な訳書に、村上春樹『パン屋再襲撃』『村上ラヂオ』、小川糸『食堂かたつむり』『ツバキ文具店』、恩田陸『夜のピクニック』、群ようこ『かもめ食堂』、天童荒太『悼む人』、益田ミリ『僕の姉ちゃん』シリーズ、角田光代『紙の月』、三浦しをん『舟を編む』、東野圭吾『宿命』、ヨシタケシンスケ『メメンとモリ』、 鈴木のりたけ『大ピンチずかん1,、2』など翻訳歴約32年の間に300冊以上を担当。著書に、エッセイ『ひとりだから楽しい仕事』『翻訳に生きて死んで』(日本語版平凡社刊)、『面倒だけど、幸せになってみようか』『ある日、心の中にナムを植えた My Dog's Diary』『スターバックス日記』 などがある。

권남희
1966년, 대구 출생. 일본문학번역가, 에세이스트. 지은 책으로 『번역에 살고 죽고』 『귀찮지만 행복해볼까』『혼자여서 좋은 직업』『어느 날 마음속에 나무를 심었다』『스타벅스 일기』가 있으며, 옮긴 책으로 『빵가게재습격』『무라카미 라디오』『밤의 피크닉』『달팽이식당』『츠바키 문구점』『카모메식당』 『애도하는 사람』 『종이달』 『배를 엮다』 『누구』『라이온의 간식』 『숙명』 『무라카미 T』 『메멘토모리』 『위기탈출도감1,2』 외에 많은 작품이 있다.






村井理子

1970年、静岡県生まれ。翻訳家、エッセイスト。主な著書に『兄の終い』『全員悪人』『いらねえけどありがとう いつも何かに追われ、誰かのためにへとへとの私たちが救われる技術』『ハリー、大きな幸せ』『家族』『はやく一人になりたい!』『村井さんちの生活』 『村井さんちのぎゅうぎゅう焼き』『ブッシュ妄言録』『更年期障害だと思ってたら重病だった話』『本を読んだら散歩に行こう』『ふたご母戦記』『ある翻訳家の取り憑かれた日常』『義父母の介護』『エヴリシング・ワークス・アウト 訳して、書いて、楽しんで』など。主な訳書に『「ダメ女」たちの人生を変えた奇跡の料理教室』『黄金州の殺人鬼』『メイドの手帖』『エデュケーション』『捕食者 全米を震撼させた、待ち伏せする連続殺人鬼』『消えた冒険家』『ラストコールの殺人鬼』『射精責任』など。

무라이 리코
1970년, 시즈오카현 출생. 번역가, 에세이스트. 주요 저서로 『오빠가 죽었다』 『낯선 여자가 매일 집에 온다』 『필요 없지만 고마워: 항상 무언가에 쫓기고, 누군가를 위해 지쳐있는 우리를 구원하는 기술』 『하리, 커다란 행복』 『가족』 『빨리 혼자가 되고 싶어!』 『무라이 씨 집의 생활』 『무라이 씨 집의 꽉꽉 채운 오븐구이』 『부시 망언록』 『갱년기 장애인 줄 알았는데 중병이었던 이야기』 『책 읽고 나서 산책 가자』 『쌍둥이 엄마 분투기』 『어느 번역가의 홀린 듯한 일상』 『시부모 간병』 등이 있다. 주요 번역서로는 『요리가 자연스러워지는 쿠킹 클래스』 『어둠 속으로 사라진 골든 스테이트 킬러』 『메이드의 수첩』 『배움의 발견』 『포식자: 전 미국을 경악하게 한, 잠복하는 연쇄 살인마』 『사라진 모험가』 『라스트 콜의 살인마』 『사정 책임』 등이 있다.

X:@Riko_Murai
ブログ:https://rikomurai.com/

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