2025.4.8
認知症となった母と会うのが怖かった 第8便 子の心に後悔を残す実の親子間の介護
クォン・ナミさんから村井理子さんへ
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理子さんへ
うれしいメールを、本当にありがとうございました。
「春の始まりは、琵琶湖の水が淡い青色になります。冬の灰色の水が青くなると、ああ、冬も終わりに近づいたなと思います」この一文を読んで、ふわっと心がほどけました。琵琶湖の風景は、読むたびにその季節ならではの表情が静かに浮かんできます。そんな景色と日々をともにできる理子さんの暮らしが、うらやましくなりました。
ソウルはまだ肌寒い日が続いていますが、春はもうすぐそこまで来ている気がします。この季節の変わり目に現れる冷え込みを、韓国語で「꽃샘추위(コッセムチュウィ)」といいます。「꽃(花)」「샘(嫉妬)」「추위(寒さ)」を組み合わせた言葉で、咲こうとする花に嫉妬して戻ってくる寒さという意味ですね。とても綺麗な名前とは裏腹に、寒さは容赦なく肌を刺します。
花を妬む寒さといえば、昨年の三月に東京でひと月暮らしていたときのことを思い出します。もう春だし、東京はソウルより暖かいはず、と春服しか持っていかなかったのですが、去年の春は異常気象で本当に寒かったですよね。桜も、あれほど遅く咲いたのは十年ぶりだったとか。私は毎日寒くて寒くて。すぐに暖かくなるだろうと思って服を買うのを渋っていたのですが、結局寒さに負けて厚手の服を何着か買いました。そうしたら三日後には急に夏日! で、今度は「無印良品」で半袖を調達する羽目に。もう、どうなってんのこの惑星……と思った、ちょうど去年の今頃。
あ、そうそう、話は変わりますが、最近娘と札幌へ行ってきました。北海道には二十歳のときに一度行ったことがありますが、やっぱり広くて、空気が澄んでいて、本当に気持ちのいい場所ですね。そして何より、食べ物が最高!
娘が調べてくれたお店を巡って、ジンギスカン、スープカレー、豚丼、海鮮丼、バターコーンラーメン、「サンドリア」のサンドイッチ、懐石料理……などなど、名物料理はひととおり制覇しました。どれもおいしくて、「これを食べに来たんだよね」と思わず頷く味ばかりでした。
その中でも、執念の豚丼ストーリーをちょっとお話ししてもいいですか。豚丼で有名な「いっぴん」というお店に行ったのですが、一時間以上の待ち時間。とりあえず受付に名前を書いておいたものの、空腹に耐えかねて近くのパスタ屋さんに入ったんです。でも、あまりの味のまずさに半分残して泣く泣く退店。再び「いっぴん」をのぞいてみると、まだ順番が来ておらず、これはもう、豚丼を食べろという神の思し召しだなと思って、待つことにしました。
そしてついに出会えた豚丼のおいしさは、まさに極楽。口に入れた瞬間、すべてが報われた気がしました。あのパスタがふつうにおいしかったら、きっと豚丼にはたどり着けなかったと思うと、心の底から、世界で一番まずかったあのパスタ屋さんに感謝したくなりました。やっぱり人生って、塞翁が馬ですね。
母が亡くなってからはおいしいものを食べるたびに、「母にも食べさせてあげたかったな」と胸が締めつけられます。札幌を旅していたときも、ずっと母のことが頭から離れませんでした。海鮮が好きだった母をこんな場所に連れてきて、思う存分食べさせてあげられたらよかったのに。中でもカニは母の大好物でしたが、値が張るものなので、なかなか頻繁には買ってあげられず、それが今も心残りです。
ある日、施設にいた母にカニを買って持って行こうとしたことがあります。が、配達アプリで注文した三軒すべてがなぜか立て続けにキャンセルに。「仕方ない。明日は直接市場でカニを買って、自分で茹でて届けよう」と思いましたが、次の日、母は永遠に旅立ちました。私も大好きなカニですが、今回の北海道では手が出せませんでした。「孝行したいときには親はなし」──その言葉が胸に沁みます。
娘に対してはこう思います。母である私に、たくさんおいしいものを食べさせてくれて、いろんな場所へも連れて行ってくれたから、私がいなくなっても、どうか後悔しないでほしいと。
けれど人は、どれだけ尽くしても、きっと後悔する生きものかも。
もう何もしてあげられない存在だからこそ、想いは積もっていくのかもしれません。それもまた、残された者の宿命でしょう。

理子さんのお手紙にあったお母様との最後のお話──読んでいて 心が痛みました。 理子さんのお気持ち, わかる気がします。私の姉のひとりも、母が病気になってからも、そして亡くなったときも葬儀に姿を見せませんでした。でも家族も親戚も誰ひとり彼女を責めることはなく、むしろ「無理もないよね」「当然だよね」とみんな納得する雰囲気でした。
理子さんのまわりの人たちも、きっと同じように考えているのではないかなと私は思います。
認知症を患っていた母が、一瞬だけ正気に戻ったとき、私にこんな言葉をかけてくれました。
「あなたは本当に優しい子だから、きっといいことがあるよ」って。
その言葉を、そのまま理子さんに贈りたいと思います。
理子さんにも、きっと優しさのぶんだけ良いことが返ってくるはずです。私は心からそう信じています。
さて、〝優しい子″の私、先日誕生日を迎えまして、来年はいよいよ還暦。
二十代の頃より、今のほうがやりたいことや夢がずっと多い気がします。娘はすっかり大人になり、両親は見送り、自由だからでしょう。お金には不自由ですが(笑)。
ノートパソコンさえあれば、どこでも仕事ができる今の暮らし。そんな日々を活かして、近いうちに東京で少し長く過ごしてみようと計画しています。
そのときには理子さんと、ビール片手にゆっくり語り合えたらうれしいです。ぜひお会いしましょうね。
介護やお仕事でお忙しい理子さん、季節の変わり目、どうか体調を崩されませんように。東京でお目にかかれる日を、心待ちにしています!
ナミ

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*次回は5月13日(火)公開予定です。
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