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認知症となった母と会うのが怖かった 第8便 子の心に後悔を残す実の親子間の介護

クォン・ナミさんから村井理子さんへ

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 理子さんへ

 うれしいメールを、本当にありがとうございました。
「春の始まりは、琵琶湖の水が淡い青色になります。冬の灰色の水が青くなると、ああ、冬も終わりに近づいたなと思います」この一文を読んで、ふわっと心がほどけました。琵琶湖の風景は、読むたびにその季節ならではの表情が静かに浮かんできます。そんな景色と日々をともにできる理子さんの暮らしが、うらやましくなりました。
 ソウルはまだ肌寒い日が続いていますが、春はもうすぐそこまで来ている気がします。この季節の変わり目に現れる冷え込みを、韓国語で「꽃샘추위(コッセムチュウィ)」といいます。「꽃(花)」「샘(嫉妬)」「추위(寒さ)」を組み合わせた言葉で、咲こうとする花に嫉妬して戻ってくる寒さという意味ですね。とても綺麗な名前とは裏腹に、寒さは容赦なく肌を刺します。
 花を妬む寒さといえば、昨年の三月に東京でひと月暮らしていたときのことを思い出します。もう春だし、東京はソウルより暖かいはず、と春服しか持っていかなかったのですが、去年の春は異常気象で本当に寒かったですよね。桜も、あれほど遅く咲いたのは十年ぶりだったとか。私は毎日寒くて寒くて。すぐに暖かくなるだろうと思って服を買うのを渋っていたのですが、結局寒さに負けて厚手の服を何着か買いました。そうしたら三日後には急に夏日! で、今度は「無印良品」で半袖を調達する羽目に。もう、どうなってんのこの惑星……と思った、ちょうど去年の今頃。
 あ、そうそう、話は変わりますが、最近娘と札幌へ行ってきました。北海道には二十歳のときに一度行ったことがありますが、やっぱり広くて、空気が澄んでいて、本当に気持ちのいい場所ですね。そして何より、食べ物が最高!
 娘が調べてくれたお店を巡って、ジンギスカン、スープカレー、豚丼、海鮮丼、バターコーンラーメン、「サンドリア」のサンドイッチ、懐石料理……などなど、名物料理はひととおり制覇しました。どれもおいしくて、「これを食べに来たんだよね」と思わず頷く味ばかりでした。
 その中でも、執念の豚丼ストーリーをちょっとお話ししてもいいですか。豚丼で有名な「いっぴん」というお店に行ったのですが、一時間以上の待ち時間。とりあえず受付に名前を書いておいたものの、空腹に耐えかねて近くのパスタ屋さんに入ったんです。でも、あまりの味のまずさに半分残して泣く泣く退店。再び「いっぴん」をのぞいてみると、まだ順番が来ておらず、これはもう、豚丼を食べろという神のおぼし召しだなと思って、待つことにしました。
 そしてついに出会えた豚丼のおいしさは、まさに極楽。口に入れた瞬間、すべてが報われた気がしました。あのパスタがふつうにおいしかったら、きっと豚丼にはたどり着けなかったと思うと、心の底から、世界で一番まずかったあのパスタ屋さんに感謝したくなりました。やっぱり人生って、さいおうが馬ですね。
 母が亡くなってからはおいしいものを食べるたびに、「母にも食べさせてあげたかったな」と胸が締めつけられます。札幌を旅していたときも、ずっと母のことが頭から離れませんでした。海鮮が好きだった母をこんな場所に連れてきて、思う存分食べさせてあげられたらよかったのに。中でもカニは母の大好物でしたが、値が張るものなので、なかなか頻繁には買ってあげられず、それが今も心残りです。
 ある日、施設にいた母にカニを買って持って行こうとしたことがあります。が、配達アプリで注文した三軒すべてがなぜか立て続けにキャンセルに。「仕方ない。明日は直接市場でカニを買って、自分ででて届けよう」と思いましたが、次の日、母は永遠に旅立ちました。私も大好きなカニですが、今回の北海道では手が出せませんでした。「孝行したいときには親はなし」──その言葉が胸に沁みます。
 娘に対してはこう思います。母である私に、たくさんおいしいものを食べさせてくれて、いろんな場所へも連れて行ってくれたから、私がいなくなっても、どうか後悔しないでほしいと。
 けれど人は、どれだけ尽くしても、きっと後悔する生きものかも。
 もう何もしてあげられない存在だからこそ、想いは積もっていくのかもしれません。それもまた、残された者の宿命でしょう。
 

 理子さんのお手紙にあったお母様との最後のお話──読んでいて 心が痛みました。 理子さんのお気持ち, わかる気がします。私の姉のひとりも、母が病気になってからも、そして亡くなったときも葬儀に姿を見せませんでした。でも家族も親戚も誰ひとり彼女を責めることはなく、むしろ「無理もないよね」「当然だよね」とみんな納得する雰囲気でした。
 理子さんのまわりの人たちも、きっと同じように考えているのではないかなと私は思います。
認知症を患っていた母が、一瞬だけ正気に戻ったとき、私にこんな言葉をかけてくれました。
「あなたは本当に優しい子だから、きっといいことがあるよ」って。
 その言葉を、そのまま理子さんに贈りたいと思います。
 理子さんにも、きっと優しさのぶんだけ良いことが返ってくるはずです。私は心からそう信じています。
 さて、〝優しい子″の私、先日誕生日を迎えまして、来年はいよいよ還暦。
 二十代の頃より、今のほうがやりたいことや夢がずっと多い気がします。娘はすっかり大人になり、両親は見送り、自由だからでしょう。お金には不自由ですが(笑)。
 ノートパソコンさえあれば、どこでも仕事ができる今の暮らし。そんな日々をかして、近いうちに東京で少し長く過ごしてみようと計画しています。
 そのときには理子さんと、ビール片手にゆっくり語り合えたらうれしいです。ぜひお会いしましょうね。
 介護やお仕事でお忙しい理子さん、季節の変わり目、どうか体調を崩されませんように。東京でお目にかかれる日を、心待ちにしています!

 ナミ

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*次回は5月13日(火)公開予定です。

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それぞれに個性的な母たちを活写する話題作!

癌の闘病ののちに亡くなった実母、高齢の義父とふたりで暮らす認知症が加速度的に進行する義母。昭和時代を必死で駆け抜けた女性ふたりの人生をたどる。

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好評既刊『兄の終い』『全員悪人』『家族』をめぐる濃厚エピソードと40冊

実兄の突然死をめぐる『兄の終い』、認知症の義母を描く『全員悪人』、壊れてしまった実家の家族について触れた『家族』。大反響のエッセイを連発する、人気翻訳家の村井理子さん。認知症が進行する義母の介護、双子の息子たちの高校受験、積み重なりゆく仕事、長引くコロナ禍……ハプニング続きの日々のなかで、愛犬のラブラドール、ハリーを横に開くのは。読書家としても知られる著者の読書案内を兼ねた濃厚エピソード満載のエッセイ集。

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クォン・ナミ(權南姬)

クォン・ナミ(權南姬)
1966年、大邱生まれ。韓国を代表する日本文芸の翻訳家でエッセイスト。主な訳書に、村上春樹『パン屋再襲撃』『村上ラヂオ』、小川糸『食堂かたつむり』『ツバキ文具店』、恩田陸『夜のピクニック』、群ようこ『かもめ食堂』、天童荒太『悼む人』、益田ミリ『僕の姉ちゃん』シリーズ、角田光代『紙の月』、三浦しをん『舟を編む』、東野圭吾『宿命』、ヨシタケシンスケ『メメンとモリ』、 鈴木のりたけ『大ピンチずかん1,、2』など翻訳歴約32年の間に300冊以上を担当。著書に、エッセイ『ひとりだから楽しい仕事』『翻訳に生きて死んで』(日本語版平凡社刊)、『面倒だけど、幸せになってみようか』『ある日、心の中にナムを植えた My Dog's Diary』『スターバックス日記』 などがある。
日本語版のエッセイが今年11月に発売予定。

권남희
1966년, 대구 출생. 일본문학번역가, 에세이스트. 지은 책으로 『번역에 살고 죽고』 『귀찮지만 행복해볼까』『혼자여서 좋은 직업』『어느 날 마음속에 나무를 심었다』『스타벅스 일기』가 있으며, 옮긴 책으로 『빵가게재습격』『무라카미 라디오』『밤의 피크닉』『달팽이식당』『츠바키 문구점』『카모메식당』 『애도하는 사람』 『종이달』 『배를 엮다』 『누구』『라이온의 간식』 『숙명』 『무라카미 T』 『메멘토모리』 『위기탈출도감1,2』 외에 많은 작품이 있다. 올해 11월에 일본어판 에세이 발매 예정.






村井理子

1970年、静岡県生まれ。翻訳家、エッセイスト。主な著書に『兄の終い』『全員悪人』『いらねえけどありがとう いつも何かに追われ、誰かのためにへとへとの私たちが救われる技術』『ハリー、大きな幸せ』『家族』『はやく一人になりたい!』『村井さんちの生活』 『村井さんちのぎゅうぎゅう焼き』『ブッシュ妄言録』『更年期障害だと思ってたら重病だった話』『本を読んだら散歩に行こう』『ふたご母戦記』『ある翻訳家の取り憑かれた日常』『義父母の介護』『エヴリシング・ワークス・アウト 訳して、書いて、楽しんで』など。主な訳書に『「ダメ女」たちの人生を変えた奇跡の料理教室』『エデュケーション』『捕食者 全米を震撼させた、待ち伏せする連続殺人鬼』『消えた冒険家』『射精責任』『PARIS The Memoir』『ハリウッドのプロデューサー、英国の城をセルフリノベする』など。

무라이 리코
1970년, 시즈오카현 출생. 번역가, 에세이스트. 주요 저서로 『오빠가 죽었다』 『낯선 여자가 매일 집에 온다』 『필요 없지만 고마워: 항상 무언가에 쫓기고, 누군가를 위해 지쳐있는 우리를 구원하는 기술』 『하리, 커다란 행복』 『가족』 『빨리 혼자가 되고 싶어!』 『무라이 씨 집의 생활』 『무라이 씨 집의 꽉꽉 채운 오븐구이』 『부시 망언록』 『갱년기 장애인 줄 알았는데 중병이었던 이야기』 『책 읽고 나서 산책 가자』 『쌍둥이 엄마 분투기』 『어느 번역가의 홀린 듯한 일상』 『시부모 간병』 등이 있다. 주요 번역서로 『요리가 자연스러워지는 쿠킹 클래스』, 『에듀케이션』, 『포식자 : 미국 전역을 충격에 빠뜨린 매복형 연쇄 살인마』,『사라진 모험가』, 『책임감 있게 사정하라』, 『PARIS The Memoir』, 『헐리웃 프로듀서, 영국의 성을 셀프 리노베이션하다』등.


X:@Riko_Murai
ブログ:https://rikomurai.com/

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