2023.8.24
鏡が浮き彫りにするのは、目に見えない真実か、仮初の現実か 第10回 画家の目としての鏡の役割
このように、鏡を用いて画面の外に広がる現実を示唆するやり方は、ヤン・ファン・エイクの〈アルノルフィーニ夫妻の肖像〉(一四三四年)に始まったことである。この肖像画でも背後の壁に凸面鏡がかかっており、夫妻の後ろ姿と画面にはない扉を映し出している(1)。扉口には二人の訪問者の姿があるが、そのうちの一人、赤い被り物をかぶった方がファン・エイク自身の姿だと考えられている。静謐に時間を留めたこの夫婦肖像画は、鏡とそこに映るものによって、家に来客を迎える新婚夫婦という物語性が生み出され、そのまま画面内の動きや時間の流れまでもが仄めされているのだ。それに対し、ベラスケスは画家としての己の姿を入れることで、すでに完成された〈ラス・メニーナス〉の制作途中という入れ子構造の時間を作り出し、かつモデルである国王夫妻が見つめる「今、ここ」を鑑賞者の前に立ち上げてみせる。さらに絵の前に立てば、鑑賞者の目は亡き国王夫妻のそれと重なるために、カンヴァスの内と外という境界が揺らいでしまう。つまり、鑑賞者が絵画空間に入り込んでしまうのだ。そこでは描かれる現実という虚構が、カンヴァス内に大人しく留まることなく、常に動的に鑑賞者をも巻き込んでゆこうとする。そうして、私たちは鏡と眼差しを通して、「見る」という迷宮に取り込まれてゆく。
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鏡の虚構性は、別の現実や真実といったものを浮き彫りにする。十七世紀オランダの画家ヨハネス・フェルメールの〈音楽の稽古〉(一六六二―六五年頃)もまた、その恰好の一例である。碁盤の目模様の床、豪奢な織物に覆われたテーブル、画面左側に並ぶ窓とそこから差し込む陽光といったフェルメール独自の室内風景に、チェンバロの一種であるヴァージナルの稽古の様子が取り込まれている。奥行きのある室内は厳密な遠近法に則って描かれているために、カメラ・オブスクラを用いた可能性が挙げられている。レンズの向こう側の光景を反転して映し出すこの装置は、絵を描く時の補助として使われ、すでに十五世紀から画家たちの間で広まっていた。生成色と黒の上衣に朱色のスカートをまとう女性は、壁際に置かれたヴァージナルに顔を俯かせ、その後ろ姿からも演奏に集中している様子が窺える。彼女の右隣で、白い襟と袖付きの黒い服を着た音楽教師と思しき男性が、ヴァージナルに片腕を載せて、演奏に目を向けている。一見すると、ごく普通の音楽レッスンと見える絵画であるが、演奏者の頭上に掛かった鏡によって、情景に隠された意味が明らかにされる。そこに映る女性の頭は、右側に立つ男性の方に向けられており、実際の姿と鏡像がずれているのだ(1)。鏡の外では、男性と演奏者の間にある青い椅子が、二人を隔てると同時に節度ある関係を示唆しているものの、鏡は女性の心の内を映すかのように彼女の想いが音楽ではなく、男性に向けられていることを露わにしている。それに気づけば、室内に置かれたものの意味も明らかとなる。床に置かれたヴィオラ・ダ・ガンバは恋愛を象徴する楽器であり(2)、ヴァージナルの蓋にはラテン語で「音楽は喜びの伴侶、悲しみの薬」と銘文が記されている(3)。さらに、男性の背後に部分的に見える絵画は、フェルメールと同時代の画家ファン・カウエンベルフ作〈キモンとペロー〉だと考えられている(4)。「ローマの慈愛」とも呼ばれるこれは、牢に繋がれたまま餓死させられようとする父親キモンに、娘のペローが母乳を与えて救おうとする内容であり、十七世紀によく描かれた教訓画の主題であった。ただし、ルーベンスの〈ローマの慈愛〉(一六一二年頃)のように、若い女性のはだけた胸元に顔を寄せる老人の絵と見えるために、エロティックな印象が強い。このように、鏡が垣間見せる恋愛という関係性は、楽器や絵画によって補足されている。二人の間にある恋愛感情という実際には目に見えないものを鏡はさらけ出す。言い方を変えれば、完全に隠しきっている関係や想いを、鏡は真実として鑑賞者に見せているのだ。
同時に、この作品でもファン・エイクやベラスケスと同様に、画家の存在が仄めかされている。鏡に映る画架の一部によって、同じ室内に画家がいること、おそらくはこの光景を描いていることは明らかだ。しかし、音楽レッスン中の二人と鑑賞者の間のどこにも、画家の姿は見えず、幽霊のように透明な存在感だけが漂う。
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