2023.5.25
斬首、殴打…彼女たちはなぜこのような行為に出たか 第8回 ファム・ファタル(宿命の女)というレッテルを貼られた女性たち
ユディトは敵の首をとった英雄として描かれる一方で、その美しさで敵を惑わす誘惑者という部分が強調されるようになった。ヤン・マセイスの〈ホロフェルネスの首を持つユディト〉(一五五四年頃)は、その美しさと妖艶さを表した恰好の一例だろう。苔色の服をはだけた上半身は、金の刺繡入りの透ける肌着だけをまとい、両の二の腕は重たげな金の腕輪で、そして胸元と耳朶は涙滴状の真珠で飾られている。ユディトの暗い金の髪は複雑に編み込まれ、冠のような形状をとっていた。美しく装う女性の右手には飾り気のない剣が握られ、左手は切断した頭部の髪の毛を掴む。その背後、暗緑色の天幕の開口部から、褐色にかすむ風景が覗く。細い三日月が浮かぶ空の下に広がるのは、アッシリア軍の野営地だろう。凄惨な場面のはずなのに、夜を迎えようとする情景と同じく、ユディトの表情は奇妙なほどに静かだ。首尾よくいったことへの満足感からか、流し目で笑みを微かに漂わせている。その人形じみた面立ちや、眠るようなホロフェルネスの表情が、絵画の静謐な印象を高めているのかもしれない。同時に、男性を屈服させるファム・ファタル的な印象が、ここでも艶やかに重ねられている。
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新約聖書で言及されるサロメもまた、切断された男性の頭部と一緒に描かれる。しかし、ユディトとは対照的に英雄ではなく、洗礼者ヨハネの首を欲した悪女と扱われてきた。この聖人は、サロメの母へロディアの再婚を不義と批判していた。彼女の再婚の相手となったのは、サロメの実父の弟、王ヘロデ・アンティパスである。その批判のため、洗礼者ヨハネはへロディアの恨みを買ってしまった。ある時、義理の父の誕生日の祝宴で、サロメは見事な舞踏を披露し、ヘロデ・アンティパスから褒美が与えられることになる。そこで、母の入れ知恵により、サロメは洗礼者ヨハネの斬首を求めた。
この内容を視覚化した作品の一つが、ロヒール・ファン・デル・ウェイデンの〈聖ヨハネ祭壇画〉(一四五〇―六四年)の右翼パネルである。この三連祭壇画のパネルは全て白い大理石のアーチで囲まれ、その奥に室内情景や風景が広がる。左翼に聖人の誕生、中央パネルにキリストの洗礼、そして右翼に斬首の場面と、左から右へ時間が流れるように洗礼者ヨハネの生涯が表されているのだ。右翼パネルの〈洗礼者ヨハネの斬首〉の白いアーチのそばにサロメと処刑人が佇み、床に聖ヨハネの身体が転がっている。処刑が今しがた行われたのだろう。首から血があふれ、床を赤く染めている。窓から覗き込む二人の男性は、この状況にさほど興味を示すことはない。そして、その二人に気を留めることなく、処刑人は聖ヨハネの頭部を掴み、サロメが差し出す大皿に載せている。青のドレスに黒の上衣、白のヴェールを短く垂らす黒い頭飾り、細い緑のヴェールをまとうサロメもまた、ヨハネの首から目を逸らし無関心な様子を見せていた。この場面の前後のエピソードもまた、小さく取り込まれている。処刑人の右上の彫刻装飾には、ヘロデ王の前で踊りを披露するサロメの姿が刻まれ、背景の祝宴の場でへロディアの娘は母の前に跪き、大皿に載った首を差し出している。
聖人の頭部の載った大皿が、サロメのアトリビュートとなって一緒に描かれるうちに、画家たちや注文主の関心は、皿を手にするサロメ自身に向けられていったのだろう。ティツィアーノの〈サロメ〉(一五一五年)は、サロメと切断された頭部の関係の方に力点が置かれているようだ。栗色の巻き毛を垂らし、白い服に真紅と青の上衣を羽織ったサロメは、わずかに顔を背けつつも、皿に載った聖ヨハネの頭部に柔らかくも物憂げな眼差しを向けている。そこには恐怖も喜びの色もなく、ただ静かな諦念だけが漂う。聖人の顔に苦痛の影はなく、そこに観る者は穏やかな眠りを見出すのではないだろうか。この絵画には、一方向の眼差しの流れが描かれている。隣で侍女は物言いたげにサロメを見上げ、サロメは洗礼者ヨハネの首を見つめているのだ。その密やかな関係を裏付けるのが、アーチのクピドの装飾である(1)。この有翼の子供が示すのは、サロメのヨハネへの愛欲だと言われている。
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敵から国を救った英雄と、聖人の首を求めた王女。聖書の文脈において、ユディトとサロメは善悪のベクトルが真逆であるにもかかわらず、目的を遂行するために誘惑という手段を取ったという点に光が当てられた。その結果、二人の女性のイメージが混ざり合い、その視覚的表象の間にほとんど違いが見られなくなった。剣と大皿というアトリビュートだけが、唯一彼女たちを区別する手掛かりとなるものの、聖書という物語の枠を外した女性像として描かれるようになると、その印象は驚くほど似通ってしまうのだ。
ルーカス・クラーナハ(父)の〈ホロフェルネスの首を持つユディト〉(一五二六―三〇年)と〈洗礼者ヨハネの首を持つサロメ〉(一五三〇年頃)。この二つの絵画を通して、二人の女性の印象が溶け合うさまを見ることができるだろう。深緑に赤みがかった金の縁つきのドレス、真紅の天鵞絨の帽子、宝石をちりばめたネットでまとめ上げた髪、黄金の首飾りなど、当時の宮廷女性を思わせる二人の装いは非常に似ている。ユディトは右手で剣を掲げ、左手でホロフェルネスの髪を掴み、サロメは聖ヨハネの頭部の載った大皿を抱えているが、彼女たちは双子のような印象を観る者に与えるはずだ。そして、土気色の肌に半開きの目、首の生々しい切断面など、二人の手元に置かれた頭部もまた、同一人物の肖像であるかのような描き方をされている。さらに、彼女たちの背後にある開口部から、険しい山と豊かな森の風景が垣間見えるため、この二枚の絵画空間は連続しているかのように錯覚するかもしれない。同一空間にいる分身像、もしくは互いの鏡像である女性たち。そこには、男性を惑わし破滅させる女性という原型としてのイメージだけがあるのかもしれない。
美しく蠱惑的なウェヌスの末裔である女性たち。セイレーン、ルクレツィア、トロヤ戦争のヘレネ、リリス、パテシバ、魔女など、ここに挙げた名前以外にも、ファム・ファタルとレッテルを貼られた女性は数多く存在する。彼女たちの美と誘惑を堪能するため、官能的な肖像が受容され確立していった。そこに相手となる男性が描かれることで、鑑賞者は自らを彼らに重ね、疑似的に誘惑者との関係性を楽しむことができる。しかし、その物語にある死や破滅、あるいは名誉の喪失という結末は描かれた男性に任せ、自分は火の粉を被らないようにひょいと画面の外に逃げてしまう。つまり、棘を抜いた薔薇を楽しむ具合なのだ。そのような視線のもとでは、女性たちが何故このような行為を選んだのか、という背景はかすんでしまうことになる。その代わりに、彼女たちは美と妖艶さで惜しげもなく飾られる。結果的にある意味、物語が奪われてゆくことで、美しく彩られた女性たちは匿名的な存在へと変えられてしまうのかもしれない。
それならば、私が見ているのは誰なのだろう。記憶の中、舞台の上で揺れる火のような女性に、私はじっと目を凝らす。逆光のために彼女の顔は影に覆われ、そこだけぽっかりと空白になっている。彼女に顔を見出そうと、頭の中にあるギャラリーからとっかえひっかえ肖像を当てはめてゆくが、いつも顔はからりと音を立てて落ちてしまう。舞台の上から、何も言わずに立ち尽くす人影。記憶の中のその人は、今も匿名のままなのだ。
編集協力/中嶋美保・露木彩
次回は6月22日(木)公開予定です。
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