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ドイツが豊かな森を描く一方、ボスやブリューゲルが目指した表現とは 第3回 絵の中の物語を包む風景の主役感

自然風景を西洋美術史に取り入れた画家、コンラート・ヴィッツ

 風景画は、宗教画の背景として登場した。そこに現実の自然風景を西洋美術史において最初に取り入れた画家として、十五世紀スイスのコンラート・ヴィッツが挙げられるだろう。「ヨハネによる福音書」第二十一章を主題とした、彼の〈奇跡の漁り〉(一四四四年)は、〈聖ペテロ祭壇画〉の現存するパネルのひとつである。この場面を形作る物語は、以下の通りである。復活後、キリストはテベリヤの海辺で、漁に出たペテロら弟子たち六人の前に姿を現す。そして、舟から海に網を下ろすように伝えたところ、引き上げられないほど多くの魚が網にかかった。すると、キリストであると気づいたペテロが、彼に近づこうと海に飛び込んだのである。
 硬質ながらも広大な自然を含む〈奇跡の漁り〉には、連続する時間が描きこまれている。前景から中景にかけて広がる湖に、キリストの弟子を乗せた舟が浮かび、四人がかりで膨れ上がった白い漁網を押さえている場面が描かれている。同時に、赤い衣のキリストと舟の間には、水の中にいるペテロ(1)が見られるだろう。年老いて白い髭を生やし、暗青色の服をまとった同じ姿は舟の中にもある(2)。このドッペルゲンガーのような描き方は、当時の表現技法のひとつで、同一風景内に幾つもの物語の時間を同在させるという「異時同図法」に依るものなのだ。つまり、舟で他の弟子と共に漁をし、キリストのもとへ泳ぎ近づくペテロの二つの異なる時間が、ひとつの空間内に現れているのである。
 この伝統的な主題を内包するのが、当時の革新的な自然描写であった。画面を占める湖はレマン湖を、キリストの頭上に見える特徴的な黒い山はモル山(3)、その奥に浮かび上がる雪に覆われた山の連なりはアルプス山脈(4)を表している。ヴィッツは、ジュネーヴ湖畔の自然風景を鮮やかに聖書場面と融合させたのである。画面奥の丘陵の斜面に小さく見える騎乗者の列や赤い屋根の塔など、特定可能な風景という空間は、同時に画家の生きた時代という時間の断片でもあるのだろう。
 そして、彼の描く自然は静的ながらも、揺らめきを感じさせる。湖は建物や石を映す鏡となり、舟の中の聖人たちの動きをもおぼろげに水面になぞっている。舟やペテロの周りの水に浮かぶ波紋は、柔らかなひだとなって、あたかも滑らかな布地にくるまれているかのようだ。しかし、キリストの影だけは水に映っていない。画家は水影という分身を描かないことで、キリストの聖性を表そうとしたのではないだろうか。

 

コンラート・ヴィッツ〈奇跡の漁〉1444年 スイス、ジュネーヴ[歴史美術館]
コンラート・ヴィッツ〈奇跡の漁〉1444年 スイス、ジュネーヴ[歴史美術館]
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石沢麻依

1980年、宮城県仙台市生まれ。東北大学文学部で心理学を学び、同大学院文学研究科で西洋美術史を専攻、修士課程を修了。2017年からドイツのハイデルベルク大学の大学院の博士課程においてルネサンス美術を専攻している。
2021年『貝に続く場所にて』で第64回群像新人文学賞、第165回芥川賞を受賞。

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