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酒井順子「言葉のあとさき」

「陰キャ」と「根暗」の違い

 時代の空気も、変化しています。八〇年代、「暗」や「陰」の価値は落ちるところまで落ちていましたが、その後少しずつ、それらの価値が見直されているのではないでしょうか。
 バブルへの階段を着々と上がっていた八〇年代は、時代そのものが「ウェーイ!」という声をあげているかのようでした。時代は光と喧騒に包まれ、「暗」や「陰」、はたまた「静」や「裏」といった要素は息をひそめます。
 そんな中で発生したバブル崩壊は、「明るさ」の敗北と言ってもいい現象だったのでしょう。以降の日本では、「暗」や「陰」の力が少しずつ、息を吹きかえすように。
 たとえば「おたく」と呼ばれる人々の存在感は、バブル崩壊以降、増しています。宮﨑勤による連続幼女誘拐殺人事件の印象などから、「おたく」には当初、良いイメージはありませんでした。内にこもったおたくが恐ろしい事件を起こした、という印象が広がったのは、宮﨑が逮捕されたのが一九八九年という、バブルが熟れきった時期であったことと無関係ではないでしょう。
 しかしその後、「尋常でなく何かに詳しい人」であるおたくを侮ることはできないというイメージが、広がっていきます。元々日本人は、「その道一筋」的な職人気質を賞賛しがちですが、おたくもまた気づけば似たような存在だったのです。
 次第に、アニメやゲームなどのおたくが好む事象は、海外でも「クール」とか言われるように。今やおたく産業は、日本にとって欠かすことのできないものになっています。
 ネットの発達によって、リアル社会とネット社会という二つの場ができたことも、明るくない人々の力が生かされることに繋がっていましょう。リアル社会でのコミュニケーションを得意としない人も、ネット社会では能弁で友達が多かったりして、リアルでは陰キャでもネットでは陽キャ、という人もいる模様。八〇年代に「根暗」と揶揄された人々には逃げ場がなかったことを考えると、それは大きな進歩です。
 ネット社会の登場以前の日本では、体育会出身者など、陽キャで根明でウェイ系でリア充、のような人が就職市場でもウケていました。個人の資質には特筆すべきものがなくとも、集団の一員として黙って耐えることができるのが、その手の人々の美質。ノリと気合いで得意先に突っ込んでいく、といったこともできたのです。
 しかしネット社会となって以降、その手の人の需要は低下気味です。「足で稼ぐ」「体当たりの営業」「ノミュニケーション」といった彼等の得意技は、リモートで稼ぐことができる人々の前では、アナログ臭の漂う手法となってきました。
 リアル社会で上手にコミュニケーションをとることができる明るい性質の価値は、とはいえ今も貴重なものです。「明るい」ことが悪、とはこれからもならないことでしょう。「陽キャ」「陰キャ」といった言葉が使用される現場を見ても、「陰キャ」の人は今も自嘲気味なのですし。
 しかしネット社会というもう一つの世が存在することによって、明るくない人々が呼吸をしやすくなったことは、事実でしょう。たとえば私は、初めて「リア充」という言葉を聞いた時は、「うまいこと言うな〜」と感心しきりだったのですが、これはネット発の言葉。ネット住人が、リアル人生を謳歌する人々を表現したのです。
「ネット人生は充実しているが、リアル人生はそうでもない自分」に対する自嘲が「リア充」からは漂いますが、しかし自嘲ができるのは、そこに余裕がある証拠。コンプレックスに潰されてしまいそうな人は、自嘲ができるものではないのですから。同時に「リア充」には、恋愛やら遊びやらにうつつを抜かす人々に対する揶揄も、混じっています。リア充な人々は、その様子をSNSなどでアピールしがちですが、自己顕示せずにいられない彼等をわらう気分も、混じっていましょう。
 のみならず、「パリピ」やら「ウェイ系」といった明るい人々を指す言葉にも、明るくない人々からの反撃の気分が、いちいち混じっている気がするのでした。八〇年代に青春を過ごした暗い人々は、自嘲する強さもなければ反撃の場もなかったけれど、今は明るくない人にも自分の陣地がある。その陣地から発せられる言葉の数々には、明るさ信仰に対する批判の精神が、常にこもっているのです。
 では、八〇年代に根暗として生きた私も、今はネット社会に居場所を見つけたのかといえば、そうではないのでした。八〇年代に青春を過ごした自分は、残念ながらネットネイティブ世代ではない。ネット社会が本来の居場所とも思えず、ここでも補助席感を味わっているのです。
 コロナ時代となり「ステイホーム」の号令がかかった時、「遊びに行きたい」「人に会いたい」と身悶える人がいる一方で、私は全く平気、というよりもむしろ安寧な気持ちで蟄居していました。平時は「明るい人達は楽しく過ごしているであろうに自分は……」という劣等感を常にどこかで抱いていたのが、コロナ時代は皆がリアルでのコミュニケーションを断たれたせいで、劣等感を忘れることができたのです。
 このように、自分の根っこの暗さを再確認することとなった、コロナ時代。しかし今は暗さが意味を持ちつつある時代なのだとすれば、無理に陽キャという仮面をかぶる必要もあるまい。しばらくは自分の闇の中に耽溺していてもいいのかも、と思っているのでした。 

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酒井順子

さかい・じゅんこ●1966年東京生まれ。高校在学中から雑誌にコラムを発表。立教大学社会学部観光学科卒業後、広告会社勤務を経て執筆専業となる。
2004年『負け犬の遠吠え』で婦人公論文芸賞、講談社エッセイ賞をダブル受賞。
著書に『下に見る人』『ユーミンの罪』『地震と独身』『裏が、幸せ。』『子の無い人生』『百年の女「婦人公論」が見た大正、昭和、平成』『駄目な世代』『次の人、どうぞ!』『男尊女子』『家族終了』など多数。

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