そして、言葉の影に必ずついてくるのはその時代の空気。
かつて当然のように使われていた言葉が古語となり、流行語や略語が定着することも。
言葉の変遷を辿れば、日本人の意識の変遷も垣間見え、
直近ではコロナ騒動をめぐり出てきた言葉からも、さまざまなことが読み取れる。
近代史、古文に精通する酒井順子氏の変化球的日本語分析。
2020.7.9
「黒人の人」と「白人」と
言葉のあとさき 第8回

アメリカで、白人警官が黒人男性を殺害した事件から世界に広がっていった、人種差別への反対運動。日本でも賛同する動きはありますが、とはいえ日本はアメリカやヨーロッパの国々と比べると黒人の人々と接する機会は少なく、身近な問題として捉えている人が多いとは言えません。
ドメスティックに生きてきた自分のことを考えても、黒人の知り合いは、皆無。日本に住んでいると、黒人を目にする機会はテレビや映画を通じてがほとんどであり、差別の現場もまた、テレビや映画の中でしか見ていないのです。
では私は黒人と接していないから黒人に対して偏見を持っていないのかというと、そうではありません。たとえば私は冒頭で、「黒人の人々」と書きました。「黒人に対する偏見は全くない」と宣言する自信はないからこそ、「黒人を『黒人』と呼び捨てにすると、差別的に聞こえはしまいか」という恐れを抱き、変な言葉遣いになったのです。肌の色で差別を受けにくい立場にいる白人については「白人」と罪悪感なしに言うことができるのとは、大きな違いがあります。
他の例を出すのであれば、日本人は「韓国人」や「朝鮮人」と口にしづらい、という気持ちを持っています。「韓国人」「朝鮮人」という言い方が乱暴に聞こえるため、「韓国の人」とか「朝鮮の人」などと言い換えていることはないか。
そこにあるのは、やはり「負い目」です。日本には、韓国・朝鮮の人達を差別してきた歴史があります。「韓国人」「朝鮮人」という言葉にはその差別の歴史や感覚が染み込んでいるから、「アメリカ人」や「イギリス人」と同様の感覚で使用することができない。「韓国人」「朝鮮人」と言うと相手に失礼になるのではないかという恐れが募り、緩衝材として「の」という助詞を入れて使用せずにはいられないのです。
「黒人の人」とか「韓国の人」など、「の人」を入れて話したり書いたりする度に、私の心はチクリとします。「の人」は、自分の中にある偏見や、面倒臭いことを避けようとする気持ちの存在を証明する言い方だから。「の人」をつければ差別問題という扱いにくい話題を無難にスルーできるだろう、という思惑が、そこにはあります。
私は、この手の「の人」を、敬称のような感覚で使用しているのでした。日本語では往々にして、シンプルで短い言い方は乱暴に聞こえ、何かをつけ加えて長くすると丁寧・柔らかに響くのです。