2020.5.7
コロナとの「戦い」
第二次世界大戦についての本を読んでいると、人々は数年前から、次第に近づく軍靴の音を感じていたようです。いつ開戦するのか、という不安な気持ちが次第に高まっていった末に、とうとう真珠湾攻撃が実施されたのです。
対して今回は、戦争のことなど誰も考えていない時に、擬似戦争が始まりました。第二次世界大戦での敗戦後、日本は武力を放棄して戦争をしないことになりましたが、コロナとのエア戦争は憲法第9条に全く抵触せずに始まったのです。
しかし、日本がリアル戦争には参加していないこの数十年の間にも、我々は自分の中で、「これは戦争だ」という個人的緊急事態宣言をしばしばしてきました。たとえば難しい病にかかった時は、病と闘う気持ちで立ち向かおう、ということで、「病気との闘い」とか「病気に負けない」といった言葉が、しばしば使用されます。
加齢現象に抗うことを「戦い」と見なす傾向も、目立ちます。
「ほうれい線に勝つ」
「紫外線に負けない」
といったコピーは、女性誌やら化粧品の宣伝やらで目につくもの。
唯々諾々と老化していくのでなく、老化に抗うべき、と人々の戦意を高揚させることによって、女性誌や化粧品の売り上げはアップするのでしょう。が、シワやシミがあるとそれは「負け」なのかと思うと、納得のいかない気持ちになってくるものです。
死や老化を敗北とする感覚は、日本の長寿化が進んだからこそのものです。いつまでも若く、美しく、元気で長生きする人が勝者で、それ以外は敗者。……という感覚は、戦争で人が死なない国であるからこそ発達したのだと思う。
死や老化とは無縁な若者の世界でも、「戦え」というアジテーションは好まれていました。いわゆるJ POPの世界でも、2000年前後頃から、「負けるな」「勝て」「強くなりたい」といった歌詞が、目立つようになってきたのです。
それらの歌の歌詞を見ると、好きな人に会えない時間にじっと耐えることが「負けない」ことであり、「強さ」でもあるようなのでした。すなわち敵は、自分の弱さ。
若者にとって恋愛は一大事であり、好きな人に会えないのは苦しいものです。その苦しさを乗り越える手段として、寂しさを敵とみなす思考が開発され、「敵に勝つ強さが欲しい」的な歌詞が生まれたのではないか。
何かを敵とみなすと、「正義は我にあり」と思うことができ、正義を守るために戦う自分にウットリすることができます。そのウットリ感がまた、甘い恋愛にピリッと効くスパイスとなる。
会いたい人に会えなくても我慢せよ。なぜなら今は戦いの時なのだから。……という理屈は、コロナを戦争とみなす現在と共通するものがあります。そして本当は戦争でない事象を「これは戦争だ」とすることの最大の目的は、この「ウットリさせる」ことにあるのではないか、と私は思うのでした。
戦争は、ある種の陶酔感と共に進行していきます。冷静な頭ではとてもではないけれどできない行為であるからこそ、国側は国民をあの手この手で酔わせようとしました。日本は神の国で、敵は鬼畜。最後は神風が吹く、はず……と、人々を乗せつつ、兵士のみならず全ての国民に思わせようとしたのであり、そのBGMはもちろん軍歌。
今も自衛隊に受け継がれる旧陸軍の行進曲など聞いていると、悲壮感すら漂う短調のリズムに、「これは確かにウットリする……」と思うものです。旧海軍の「軍艦マーチ」にしても、こちらはすっかりパチンコ店を想起させる曲になってしまったとはいうものの、ちゃんと聞くと、精神を高揚させる曲調であることがわかります。
敗戦後、戦争を放棄した日本においても、そのウットリ感については、懐かしく思った人はいたようです。また、戦争のことを全く知らず、もはや徒競走すら「勝ち負けをつけるのはよくない」などと全員一緒にゴールする時代に育った若者も、戦争は陶酔を伴うことを戦隊ものなどによって理解していた。むしろ戦争の無い時代、戦争がもたらすウットリ感への憧れは、強まったのかもしれません。
恋愛であれ老化であれ、何かつらいことに直面した時、我々が「これは戦争だ」と思って乗り越えようとするのは、だからなのでしょう。苦悩を乗り越えて、勝った時には仲間と共に涙を流す。……と、未だ知らぬ戦争だからこそ、我々は好きなようにウットリの翼を広げることができるのです。
今、世界の為政者達はそのウットリの力を、コロナ対策にも用いようとしています。家にいるとか手を洗うといった地味な行動が「戦い」の中心ですが、それがいつまで続くかわからないとなると、ウットリの効果も減ってしまうのは、第二次大戦の時と同様。長期戦になるとは既に首相からも言われていますが、ウットリもすり減る長期戦において、いかにして国民の戦意を鼓舞し続けて地味な行為を徹底させるか。……為政者の言語能力が問われ続けるという部分においても、今は戦時下なのです。