よみタイ

鈴木光司「海の怪」
地球の表面は70%が海。
しかし、その実態のほとんどがいまだヴェールに包まれている。
国内外の海を船で渡った男だからこそ知る、海の底知れぬ魅力と恐怖とは――
その出来事は、単なる気のせいか、この世のものならぬものからのメッセージか……。
『リング』をはじめとした一連の作品で、ホラー界に金字塔を打ち立てた鈴木光司。
見聞きした実話をもとに語る、海と水をめぐる畏怖と恐怖に彩られた読み切りエピソード。

いかだに乗ってどこまでも(後編)

海の怪 第13回

 作家への道はグリニッジ・ヴィレッジから始まると信じて、あとはニューヨークへ向かうだけだ。
 しかし僕たちは、絵に描いたような絶景の中、いかだ作りの心地よい疲労に包まれ、気分は夢心地だ。この快楽に終わりを告げるのは、まだ早すぎる。キーウエストには一泊しかしない予定だったが、どうやらそれは無理そうだ。既にその予感はあった。

 無人島に渡っていかだを作り始めた時点で頭の中では一泊増えていたが、キーウエストの突端にモーテルが立ち並ぶ様を見て、さらにもう一泊追加した。
 僕たちはその後、ゴキブリがうようよ出るグリニッジ・ヴィレッジの安ホテルに滞在することになるのだが、そのときは「帰国便フィックスしたわけじゃないからいいや」と楽園の旅を延長することにした。

 キーウエストを思う存分堪能した僕たちは、予定よりも三日遅れてニューヨークに入り、大韓航空のデスクで予定を変更する旨を伝えた。
 青い海が広がる夢の世界から、人も建物も密集するグリニッジ・ヴィレッジの現実へとやってきて、あっという間に数日が過ぎた。その夜、僕たちはホテルの近くの居酒屋でワインを空けていた。
 店内のテレビでニュースが流れている。酒に酔いしれ、おしゃべりに興じていたとき、突然入ってきた言葉に耳を疑った。
「速報です。大韓航空007便がソ連防空軍によって撃墜されました――」
 それは、僕たちがもともと乗るはずの、まさにその便だった。

 すぐに、母に日程表を渡してきたことを思い出した。時差も忘れて公衆電話にクォーターをじゃらじゃら入れながら実家の番号を押す。
「はい、もしもし」
「あ、俺だけどさ、あの飛行機、乗らなかったから。大丈夫だから」
「ん? 何言ってんの、あんた」
「今、ニューヨークから電話してんだよ。日程表渡しただろ?」
 母は日程表などまったく見ていなかったようで、「ああ、そう」を繰り返すだけだった。僕はこんな奇跡があるんだろうかと震えていたので、すっかり拍子抜けしてしまった。

 日本に戻ってきて一カ月ほどが経ち、マスコミの話題も次のニュースへと移り、やっと体も日常生活になじんできた。
いつものように本屋でなんとなく書棚を見ていると、タイトルは忘れてしまったが、キーウエストを舞台としたミステリー小説を見つけた。
 地名にほのかな懐かしさを覚えて購入し、家に帰って読み進めていった。
 うろ覚えだが、確かこんなシチュエーションだったと思う。

 キーウエスト周辺にある無人島のひとつで、死体が発見された。誰かがボートで被害者を運んだ形跡はなく、死んだ人間が泳いで渡ったとしか考えられない。となると、自殺か? しかし、検視するまでもなく明らかな他殺の徴候が見える。そして、被害者が無人島に渡った方法について、警官たちは様々な憶測をする。
「ボートで渡ったんじゃないとしたら、どうやって渡ったというんだ」
「歩いたり泳いだりして渡ったんだろ」
「そんなことをするバカはいないよ。あの辺の海の砂の中には、猛毒をもったウミヘビがわんさかいるんだ。住民はみんな知ってるから、歩いて渡るはずないよ」
 ぼくは本を一旦おいて一か月前の情景を思い起こした。海底の砂にくるぶしまで沈めたときの、ひやっとした気味の悪い感触が両足によみがえり、悪寒の正体に思い至った。冷たい砂の下には無数のウミヘビがいた……。
往路はどうにかウミヘビから逃れられたが、復路に歩いていたら、咬まれていた可能性がある。いかだを作ったのは正しい選択だったのだ。
船で航海していてなんとなく嫌な予感を抱くことがある。暗岩(海面下に隠れている岩)にぶつかれば船底が破損して沈没の憂き目に遭い、海中を漂うロープがプロペラに絡まれば即座にエンジンが止まって動力を失う。さらにその下に広がる海底となれば、何が潜んでいるか知れたものではない。
目に見えない世界に対する警戒を怠らないために必要なのは、野性の勘である。
人間の皮膚感覚には危険を察知する能力があるのだろう。肌を泡立てる嫌な予感と、幼少期におけるいかだ作りの体験が相まって、いかだ作りを思い立ち、時間の遅れが生じ、キーウエスト滞在が延び、ニューヨーク到着が大幅に遅れ、乗る予定だった大韓航空007便をキャンセルした……、偶然が絡み合ったこの一連の出来事を、特別視するつもりはない。考えてみれば、常にリスクを抱えているわれわれの人生は、似たような出来事の連続で成り立っている。出勤時に、財布を忘れてバスに乗り遅れ、重大事故を免れるなんてことは往々にして起こり得るのだ。ただ、ほとんどの場合は、因果関係に気づかずにいるというだけである。
 大韓航空007便の撃墜という、衝撃の事件が起こったため、一連の流れが意味を持って浮上してきたというに過ぎない。
 いずれにせよ、生と死はまさに紙一重のところにある。

1 2

[1日5分で、明日は変わる]よみタイ公式アカウント

  • よみタイ公式Twitterアカウント
  • よみタイ公式Facebookアカウント

関連記事

鈴木光司

すずき・こうじ●1957年静岡県浜松市生まれ。作家、エッセイスト。90年『楽園』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞してデビュー。91年の『リング』が大きな話題を呼び、その続編である95年の『らせん』では吉川英治文学新人賞を受賞。『リング』は日本で映像化された後、ハリウッドでもリメイクされ世界的な支持を集める。2013年『エッジ』でアメリカの文学賞であるシャーリイ・ジャクスン賞(2012年度長編小説部門)を受賞。リングシリーズの『ループ』『エッジ』のほか、『仄暗い水の底から』『鋼鉄の叫び』『樹海』『ブルーアウト』など著書多数。

週間ランキング 今読まれているホットな記事