2022.9.14
是枝裕和監督作に出てくるプール、海、湖、風呂……「水」の連想で読み解く「家族」の関係
ストーリーを追うだけでなく、その細部に注目すると、意外な仕掛けやメッセージが読み取れたり、作品にこめられたメッセージを受け取ることもできるのです。
せっかく観るなら、おもしろかった!のその先へ――。
『仕事と人生に効く 教養としての映画』の著者・映画研究者の伊藤弘了さんによる、映画の見方がわかる連載エッセイ。
今回は、是枝裕和監督作品『DISTANCE』(2001年)を中心に、是枝作品の中で描かれる「水」の表現を考察します。
何を見ても何かを思い出す。
文学に通じている人であれば、それこそすぐに「思い出す」だろう。アーネスト・ヘミングウェイの短編小説の日本語タイトルである。ヘミングウェイの死後に発表された作品のひとつで、息子に幻滅した父親の救いのない話だが、今回は小説の内容には立ち入らない。
何を見ても何かを思い出す。
これは僕が映画を見ているときの状態にかなり近い。決して肯定的な意味合いだけではない。思い出さなくていいようなこと、思い出したくなかったことまで勝手に思い出してしまう。そちらに気をとられて映画の本筋がたどれなくなることもしばしばだが、とはいえ、そうして思い出された記憶は映画について書くときに役立ってくれる。
たとえばプール。
もちろん、プールが出てくる映画など溢れかえるほどある。その気になればプールの映画史を構想することさえ可能だが(じっさい、僕の師匠である加藤幹郎先生はその試みに先鞭をつけている 注1)、今の僕がそれをやったところで収拾がつかなくなって決壊するのが関の山だ。ここではあくまで限定的な話を綴っていく。
映画とプールで僕が思い出す作品の一つに、是枝裕和監督の『奇跡』(2011年)がある。映画に出てくる二人の兄弟は、両親の離婚にともない、母親(鹿児島)と父親(福岡)のもとで離れて暮らしている。
兄弟ともにそれぞれの土地でプール教室に通っている。映画序盤のプールのシーンで、兄の航一(前田航基)は、同じ教室に通っている同年代の男子児童が見学席の母親と弟に手を振っている様子を目にする。男子児童を二度見した航一は周囲を見回す。その姿はそこにいるはずのない自分の家族の姿を探しているかのようで、彼の寂しげな表情と相まって観客の哀愁を誘う。
劇中の別のシーンで、プール教室を終えた航一は、福岡のプール教室にいる弟の龍之介(前田旺志郎)に電話をかける。一人でいる兄に対して、弟は友だちと戯れあっている。電話越しにその様子を察した彼は、じつにつまらなそうに「楽しそうやな」と言う。プールをめぐる何気ない一幕だが、航一の孤独感を巧みに浮かび上がらせている。
『DISTANCE』で描かれる、水への恐怖
これを見て思い出すのは、同じく是枝が監督した『DISTANCE』(2001年)のプールのシーンである。水泳のインストラクターをしている勝(伊勢谷友介)の様子を、見学席から彼の兄(津田寛治)が眺めている【図1、2】。兄は幼少期に父親に無理やり水に沈められたことがトラウマになっており、水に対する恐怖心を抱いている。彼はプールを見ていただけで冷や汗が出てきたと言う。
兄は「真理の箱舟」という新興宗教の信者で、出家して教団施設に身を置くつもりだと勝に告げにきたのである。
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