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庵野秀明・実写映画初監督作『ラブ&ポップ』から読み解く、「名前」に託されたもの

実写映画だからこそ色濃い「庵野作品」のエッセンス

 「エヴァ」の「旧劇場版」から「新劇場版」までの間に、庵野秀明は3本の実写映画を監督した。『ラブ&ポップ』(1998年)、『式日』(2000年)、『キューティーハニー』(2004年)である。前置きが長くなったが、今回は『ラブ&ポップ』を取り上げる。これらはいずれも「ヒット」したとは言い難く、ファン以外からはほとんど認知されていない作品だと思う。だが、慣れない実写映画だからこそ、クリエイターとしての庵野の本質が曝け出されているように感じられて、僕としては愛着がある。『ラブ&ポップ』と『式日』はいわゆる「アート系映画」に近い手触りであり、そもそも大ヒットするような映画ではない。『式日』に関しては庵野自身が製作前から「儲からない」ことを確信しており、のちに映画祭のトークショーで「映画の中身に関しては本当にミニマムで、1000人の観客がいたら数人にしかわからないと思います」「数パーセントの人にとって一生残るような映画にしたかった」と述べている。

 『式日』の二人の主人公を演じているのは、原作小説の『逃避夢』を書いた藤谷文子と映画監督の岩井俊二である。映画の舞台は山口県宇部市で、ロケーション撮影も同地でおこなわれている。宇部は庵野秀明の出身地であり、成功して故郷に帰ってくるカントク(岩井俊二)には庵野自身が重ねられている。

 本作の登場人物には名前がない。男はもっぱらカントクと呼ばれているし、家族間の問題から精神的な危機に陥り、虚構の世界を生きる女(藤谷文子)は彼女と呼ばれる。アニメーションと実写映画の最大の違いのひとつは、俳優の生身の身体があるかどうかである。たとえ名前を奪われたとしても、その身体性ゆえに固有性が担保される。だから名前なんかどうでもいいかと言えば、そういうわけではなく、固有名を奪われた登場人物の設定は、逆説的に名前の重要性を示唆しているように思う。

 というのは、実写初監督作品である『ラブ&ポップ』が、まさに「名前」を問う映画だったからである。村上龍の同名小説を原作に仰ぐ『ラブ&ポップ』は、女子高生の援助交際をテーマにした映画だ。劇中では何度も名前を尋ねるシーンが描かれるが、援助交際の場で名乗る名前はいくらでも代替可能なものであり、たとえそれが本名であったとしても大した意味を持たない。

 しかし、だからこそ作中で「名前」をめぐるやりとりが繰り返し描かれることに注目してほしい。匿名的な関係性にもかかわらず、彼らはお互いに名前を尋ね合い、そして名乗り合う。とりわけ、女子高生が噛んだマスカットを収集する男カケガワ(平田満)とのシーンは象徴的だ。主人公のヒロミ(三輪明日美)が属す四人組(そのなかにはブレイク前の仲間由紀恵が演じる大人びた少女・チーちゃんもいる)は、カラオケに付き合う見返りとしてカケガワに12万円を要求する。その条件を受け入れたカケガワは「頼みごとがある」と言って、カラオケの個室で彼女たちにマスカットを噛んで吐き出すことを求める【図3、4】。

【図3】『ラブ&ポップ』庵野秀明監督、1998年
【図3】『ラブ&ポップ』庵野秀明監督、1998年
【図4】『ラブ&ポップ』庵野秀明監督、1998年
【図4】『ラブ&ポップ』庵野秀明監督、1998年

 このシーンでカケガワが口にするセリフは意味深である。彼は「名前を教えてよ。本名じゃなくてもいいんだ。適当な名前を自分で考えて、それを言ってよ」「本名じゃなくてもね。自分で考えた名前は自分の名前なんだよ。それは別の、もう一人の自分の名前なんだよ」と言う。

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伊藤弘了

いとう・ひろのり 映画研究者=批評家。熊本大学大学院人文社会科学研究部准教授。1988年、愛知県豊橋市生まれ。慶應義塾大学法学部法律学科卒。京都大大学院人間・環境学研究科博士後期課程研究指導認定退学。著書に『仕事と人生に効く教養としての映画』(PHP研究所)がある。

Twitter @hitoh21

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