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庵野秀明・実写映画初監督作『ラブ&ポップ』から読み解く、「名前」に託されたもの

ナウシカにガンダム……歴史に残る名作に参加

 学生時代から大器の片鱗を見せていた庵野だが、プロとしての最初期の仕事で注目すべきは、何といっても宮﨑駿の『風の谷のナウシカ』(1984年)に原画のスタッフとして参加し、巨神兵のシーンを手がけたことだろう。不完全な状態で無理やり引っ張り出された巨神兵がドロドロに溶けてしまうあのシーンである【図1】。庵野はのちに「巨神兵」のコンセプトを借り受け、短編特撮『巨神兵東京に現わる』(2012年)を企画し、製作・脚本に名を連ねている(監督を務めた樋口真嗣は庵野の盟友と言うべき存在。『シン・ゴジラ』や『シン・ウルトラマン』をはじめとする数多くの作品で協働している)。庵野と宮﨑の師弟関係は、『風立ちぬ』で庵野を主人公・堀越二郎の声優として起用することにつながっていく。

【図1】『風の谷のナウシカ』宮﨑駿監督、1984年
【図1】『風の谷のナウシカ』宮﨑駿監督、1984年

 『ナウシカ』以前にはTVアニメ『超時空要塞マクロス』(1982-3年)に参加し、その流れで『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』(石黒昇、河森正治監督、1984年)にも加わっている。作画監督の一人であった板野一郎は、庵野が宮﨑駿と並んで「師匠」と仰ぐアニメーターである。板野が手がけたメカの曲芸じみたアクションは話題となり、業界やファンの間では「板野サーカス」と呼ばれて親しまれている。特に有名なのが「納豆ミサイル」と呼ばれる演出で、追尾するミサイルとそれを振り切ろうとするロボットの動きをスピーディかつアクロバティックに描き、多くのフォロワーを生んだ。

 ジブリ作品では高畑勲の『火垂るの墓』(1988年)にも原画で参加している。また、同じ年に公開された『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』(富野由悠季監督、1988年)のメカニカルデザインを担当した。庵野秀明は、キャリアの初期から才能を認められ、数々の名作に参加し、錚々たる監督・スタッフのもとで仕事をしてきたのである。

 この間の1984年にはアニメーション制作会社ガイナックス(GAINAX)が設立され、庵野は中軸メンバーとして活躍した。会社設立の目的だった『王立宇宙軍 オネアミスの翼』(1987年)には「スペシャルエフェクトアーティスト」という変わった役職名でクレジットされている。とりわけ、クライマックスをなすロケットの打ち上げシーンが有名で、庵野が手がけた「ロケットから剥離して画面を覆い尽くすように降ってくる氷」の、手描き表現の限界を突き詰めたような変態的な描写は語り草となっている【図2】。

【図2】『王立宇宙軍 オネアミスの翼』山賀博之監督、1987年
【図2】『王立宇宙軍 オネアミスの翼』山賀博之監督、1987年

 ガイナックス時代の庵野は、OVA作品『トップをねらえ!』(1988-9年)で監督デビューを果たした。総監督を務めたTVアニメ『ふしぎの海のナディア』(1990-91年、NHKで放送)は当時から高い評価を得ている。もちろん、『新世紀エヴァンゲリオン』もガイナックスで制作した作品である。

 2006年には株式会社カラー、次いでスタジオ・カラー(株式会社カラーのアニメーション制作スタジオ)を設立して代表取締役社長の座につき、翌年には取締役を務めていたガイナックスを退社した。『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』(2007年)以降の「新劇場版」は同社が製作している(現在、「エヴァ」の版権はカラーに移っている)。

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伊藤弘了

いとう・ひろのり 映画研究者=批評家。熊本大学大学院人文社会科学研究部准教授。1988年、愛知県豊橋市生まれ。慶應義塾大学法学部法律学科卒。京都大大学院人間・環境学研究科博士後期課程研究指導認定退学。著書に『仕事と人生に効く教養としての映画』(PHP研究所)がある。

Twitter @hitoh21

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