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新居のアパルトマンから見える高い壁の先にあるもの 第3回 おかしいのは誰だ? パリ最大の精神科病院とYと祖父

料理レシピエッセイ『ねこしき 哀しくてもおなかは空くし、明日はちゃんとやってくる。』、愛猫との日々を描く『猫と生きる。』がロングセラーとなっている猫沢エミさん。 2022年2月14日、コロナウイルスの終息が見えないなか、2匹の猫と共に再びフランスの地を踏み締めた。16年ぶり、二度目の移住のために。 遠く離れたからこそ見える日本、故郷の福島、そしていわゆる「普通」と一線を画していた家族の面々……。フランスと日本を結んで描くエッセイです。

第3回 おかしいのは誰だ? パリ最大の精神科病院とYと祖父

最難関のアパルトマン探し

 フランスへ来て早3ヶ月が経った。この間なにをしていたのかというと、エッフェル塔へ観光しに行ったり、ルーヴル美術館でモナリザに感激していたのでは決してなく、フランス社会へ登録するための数々の手続きや銀行口座の開設やら、連れてきた愛猫二匹の環境の変化を気遣ったりなど、なにかと忙しかった。そのなかでも最大の難関だったのが、長く住めるアパルトマンを探すことだった。

 まるでコロナ禍の最後の悪あがきのようなオミクロン株が、猛威を振るっていた移住時の2022年2月。本格移住する前、家を見つけるためだけに、パリへ短期ステイを何度か繰り返すなんていうことも通常ならばできたのだが、一度海外へ出て日本に戻るたび、二週間という長い自主隔離をしなくてはならず、「一世一代の国境をまたいだ大引越しで、そんな悠長なことやってられるかよ!」が本音だった。ひとまず移住直後の仮の住まい先として、フランス人の友人が持っている短期アパルトマンを借りることができた。ただし、ここに居られるのは長くて4月末までとあらかじめ決まっていたため、到着した2月14日から計算すると、2ヶ月半でここを出なくてはいけないということになる。脳内に世良公則&ツイストのヒット曲〝宿無し〟が流れ始める昭和40年代生まれ。そんなことを言っている場合じゃない。パリのアパルトマン探しは、フランス人でさえ難しいことで有名なのに、立場の弱い外国人の私が好物件を探すのは、ほぼ奇跡のように思われた。ところがどっこい、人生なにが起こるかわからない。SNSで知り合った、パリ在住のある日本人女性がアパルトマンの情報を下さり、一発で理想の物件に入居が決まったのだ。あゝ……ちいさな徳(死にかけた蝉を草の上にのせてあげたり、おばあちゃんに積極的に席を譲ったり)を積んでおいてよかったと、小市民の私はホッと胸をで下ろした。

 引越しは、3月4日と決まった。渡仏前、睡眠不足と不安で押し潰されそうだった自分に言ってやりたい。「大丈夫。到着後、わずか18日で引越しが完了するよ」と。そうして恵まれた新居は、50m2の1LDK。日当たりと風通しもよく、動物と暮らすための条件をそろえた快適なアパルトマンだった。玄関すぐ右側にある台所にも窓があり、換気扇も換気口もないフランスの一般的なアパルトマンのキッチンとしては、これ以上ない好環境だった。ふと、窓の外を眺めると、建物の裏手が見えた。手前には広場、そして右側にはパリではめずらしい17階建ての近代建築アパルトマンが建っている。その奥 ––––– 道路を挟んだ通りの向こう側には高い塀がそびえ立ち、背の高い木立が見える。「いったい壁の向こう側にはなにがあるんだろう?」とは思ったが、この広場と壁向こうの広そうななにかの敷地のおかげで、我が家の採光は十分に保たれているのだとすぐにわかって、むしろありがたい存在だなと思った。

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猫沢エミ

ミュージシャン、文筆家。2002年に渡仏、07年までパリに住んだのち帰国。07年より10年間、フランス文化に特化したフリーペーパー≪BONZOUR JAPON≫の編集長を務める。超実践型フランス語教室≪にゃんフラ≫主宰。著書に料理レシピエッセイ『ねこしき 哀しくてもおなかは空くし、明日はちゃんとやってくる。』『猫と生きる。』など。
2022年2月に2匹の猫とともにふたたび渡仏、パリに居を構える。
9月、一度目のパリ在住期を綴った『パリ季記 フランスでひとり+1匹暮らし』が16年ぶりに復刊(扶桑社)。最新刊は、愛猫イオの物語『イオビエ』(TAC出版)。

Instagram:@necozawaemi

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