よみタイ

ブリュッセルのミュージシャンの手作りオープンサンド

ブリュッセルの公園。
ブリュッセルの公園。
ダンのピクニックセット。
ダンのピクニックセット。

 ひとつひとつの場面にたくさんの思い出があるので、こうして羅列することにむしろ悔しさが残る。本当は、どの瞬間もすべて書き留めておきたいほど、彼の話や様子や雰囲気は魅力的だ。「この人を描きたい」と強く思わされる人にごく稀に出会うことがあるが、ダンは私にとってまさにそういう人だ。彼には物語がいつも溢れている。そしてそれを書きつくすことはいずれにせよ不可能だろう。必ず、文章に収まらないものが残るはずだから。

 多くの出来事のなかで、ひとつめに書くとしたら、公園でのピクニックのことかもしれない。ある日の午後に、「近くの公園に行こうと思うけど、来る?」と誘われたので、すぐに着替えて準備した。ダンは小さなリュックになにやらものを詰めている。見ると、ブランケットと、パンやバターなどの食べもの、フォークやナイフ、さらにベルギービールを2本入れようとしていた。ダンは途中で持ちものの量に対してリュックが小さすぎることに気が付き、大きいのを探し出してきた。改めて入れ替えて背負い、ギターを抱えてようやく出発だ。

 家から五分も歩けば大きな公園がある。しばらく散歩をして、広々とした芝生の広がるところへ出た。ダンは私に「どの木が好き?」と聞く。彼は公園に行くと必ずこの質問をするということを、この頃私は気づき始めていた。とても似ているいろいろな木を見比べて、さして確信が得られなかったとしても「あれかな」と私が言うと、「ふむ。あれね」と彼は言って、しばらく眺める。「いいね。じゃあ、あれにしよう」と賛同してくれることもあれば、「なるほどね。その木も確かにいいね。だけど僕はあの木のほうがもっと好きなんだけど、どう思う?」とさらに問いかけてくることもある。そういうときは、もちろんダンに従う。どう考えても、木の選び方は彼のほうが詳しいに違いない。なにせ私は、ダンに聞かれるようになって初めて、公園の木々についての好みを考え始めたばかりの初心者だ。

 その日の木は、私が好きだと指した木だったと思う。葉の広がり方に丸い印象のある、ちょっと小ぶりな、そして根本がゴツゴツしていない木だった。ダンは枝葉の陰にブランケットを広げた。リュックの口をほどき、次々取り出す。パンとバターと、魚の燻製、それからフルーツやトマトがあった。

 魚は確かニシンだったはずだ。スコットランド生まれのダンにとっては、大好きで大切な食べもののひとつだそうだ。それを少しずつ切り分けては、バターを塗ったパンにサラダ菜と一緒に載せて、オープンサンドにする。ベルギービールを飲みつつ、日陰で食べるそのごちそうは、本当に美味しくてほっとした。ドイツでの調査から時おり逃げてはダンの家を目指すのには、彼の料理が食べたいという欲深さと厚かましさも理由のひとつになっていた。ドイツにもきっと美味しい料理はたくさんあるのだろうが、予算の関係でろくなレストランに行けないせいなのか、それとも単純に相性が悪いのか、理由はともあれ私はドイツでの食にはいつも苦労する。大量のじゃがいもとパン、ハムや肉、チーズを繰り返し食べる生活に、すぐに音を上げそうになる。ベルリンには幸い、安いエスニック料理店も多いので、ひとりのときはそういったお店に通い、なるべく野菜が多く取れそうなものを選んだし、自炊ができる日にはしていたが、それでも身体は疲れてしまう。

 ダンが作ってくれる家庭料理はいつもシンプルで、健康的だ。その日のオープンサンドも、なんてことはないもののはずなのに、幸せな味で癒やされた。最近はどこに行くにも持ち歩いているというギターで2曲くらい弾き語りをして、ダンはゴロンと横になった。彼はよく眠くなるのだ。一緒に美術館に行った時にも、回廊をしばらく進むと廊下の隅で眠ってしまった。公園では、木漏れ日の穏やかな光のなかでうたた寝をする。そんな時間が平和で、幸せで、私はドイツにまた戻るのが悲しくなってしまうほどだった。

1 2 3 4

[1日5分で、明日は変わる]よみタイ公式アカウント

  • よみタイ公式Facebookアカウント
  • よみタイX公式アカウント

関連記事

新刊紹介

濱野ちひろ

1977年、広島県生まれ。
2000年、早稲田大学第一文学部卒業後、雑誌などに寄稿を始める。インタビュー記事やエッセイ、映画評、旅行、アートなどに関する記事を執筆。
2018年、京都大学大学院人間・環境学研究科修士課程修了。現在、同研究科博士課程に在籍し、文化人類学におけるセクシュアリティ研究に取り組む。
2019年、『聖なるズー』で第17回開高健ノンフィクション賞を受賞。
その他最新情報は公式HP

写真:小田駿一

週間ランキング 今読まれているホットな記事

  1. 「神戸大学以上の学歴の女性」としか結婚しないと決めた東大文一原理主義者【凹沢みなみ×『学歴狂の詩』紹介マンガ】

  2. 灘中高→4浪で東京都立大のナツ・ミートが『学歴狂の詩』を読み解く

  3. 「学歴」というフィルターで世界を認識する狂人たち【小川哲×佐川恭一 学歴対談・前編】

  4. 小説家デビューは「受験勉強」で攻略できるのか?【小川哲×佐川恭一 学歴対談・後編】

  5. 伊藤弘了「感想迷子のための映画入門」

    岩井俊二『Love Letter』のヒロインが一人二役である理由 ――あるいは「そっくり」であることの甘美な残酷さ

  6. 佐川恭一「学歴狂の詩」

    「田舎の神童」の作り方【学歴狂の詩 無料公開中!】

  7. 新刊 : 佐川恭一
    笑いと狂気の学歴ノンフィクション

    学歴狂の詩

  8. 佐川恭一「学歴狂の詩」

    「阪大みたいなもん、俺は三位で受かるっちゅうことや!」マウント気質が強い〈非リア王〉遠藤【学歴狂の詩 試し読み】

  9. 佐川恭一「学歴狂の詩」

    天才・濱慎平がつぶやいた「こんなんもう手の運動やん……」【学歴狂の詩 試し読み】

  10. 学歴にこだわる陰キャはエモ系界隈に逆襲できるのか?【凹沢みなみ×佐川恭一 対談】

  1. しろやぎ秋吾「白兎先生は働かない」

    同僚の先生に嫌われるのが怖かった教頭の決意【白兎先生は働かない 第14話】

  2. なかはら・ももた/菅野久美子「私たちは癒されたい 女風に行ってもいいですか?」

    女性用風俗に通う女性たちの心のうちを描くコミック新連載【漫画:なかはら・ももた/原作:菅野久美子「私たちは癒されたい」第1話前編】

  3. 野原広子「もう一度、君の声が聞けたなら」

    妻が逝った。オレ、もう笑えないかもしれない 第1話 さよなら、タマちゃん

  4. しろやぎ秋吾「白兎先生は働かない」

    「どうして管理職になってしまったんだろう」教頭先生の苦悩【白兎先生は働かない 第13話】

  5. なかはら・ももた/菅野久美子「私たちは癒されたい 女風に行ってもいいですか?」

    同世代の男にはもう懲りたと思っていたけど、新人セラピストの彼に出会って…【漫画:なかはら・ももた/原作:菅野久美子「私たちは癒されたい」第1話後編】

  6. 上田惣子「体重減・筋肉増のおばあさんになる「あすけん」式 人生最後のダイエット」

    体型と体質は、遺伝の呪縛から逃れられるか 第9回 自分に合ったダイエット探し

  7. しろやぎ秋吾「白兎先生は働かない」

    「教師が足りない…」苦しい学校現場を運営する教頭先生【白兎先生は働かない 第12話】

  8. なかはら・ももた/菅野久美子「私たちは癒されたい 女風に行ってもいいですか?」

    普段は厳しい女性上司を演じているけど……SM専門女性用風俗で見つけた「本当の私」【漫画:なかはら・ももた/原作:菅野久美子「私たちは癒されたい」第4話】

  9. しろやぎ秋吾「白兎先生は働かない」

    絶対に定時で帰る中学校教師……その驚きの理由とは? 第1話 部活にはいきません

  10. なかはら・ももた/菅野久美子「私たちは癒されたい 女風に行ってもいいですか?」

    30代独身女性が女風を利用して気づいた「一番大切にするべきなのは…」【漫画:なかはら・ももた/原作:菅野久美子「私たちは癒されたい」第2話後編】