よみタイ

心に残る、食べられなかったジョージア料理

『聖なるズー』で第17回開高健ノンフィクション賞を受賞した作家・濱野ちひろさん。
プライベートや取材で、さまざまな場所を訪れ、人々と食卓を囲み語る。
日常や旅先で見つけた、人生の記憶に残る言葉やエピソードの数々。
人との出会いは一期一会。だけど宴は縁をつなぐ――そんな食と人生にまつわるエッセイです。

前回はとあるきっかけで知り合った、魅力的な才能にあふれるベルギーのミュージシャンとの素敵なお話でした。

今回の舞台はジョージア。コーカサス山脈の風景に惹かれていた濱野さん。憧れの現地で待ち受けていたトラブルとジョージアで出会った日本人と現地での食べ物について。

 

 思えばその旅は最初からついていなかった。空港に到着してすぐ通信環境を整え、タクシーを呼んだ。だが、ずいぶん待ってみても来なかった。付近には、客を待ち受ける運転手たちがうろうろしている。ボッタクリする気満々なのは、見ればわかる。だから彼らがこちらを見たり、手を振ってきたりしても私は取り合うつもりはなかった。しかし、依頼したタクシーの到着があまりにも遅い。ボケっと立ち続けている私は、あまりにもわかりやすい標的になっていた。

 男がひとり、俺の車に乗れ、と話しかけてきた。にこやかである。人相も悪くない。だが私は断った。「もうタクシーは呼んであるから」と。すると彼は言った。「でももう15分も来てないじゃないか。そのタクシーは詐欺じゃないのか。俺ならそんなことはしない」。

 いけない、とわかっていながら、この会話を少し面白いと思ってしまった。私は聞いた。「街までいくら?」。すると男は言った。「100」。私は大仰に驚く表情を作り、「冗談じゃない! 高すぎる!!」と大きな声で言った。すると男は舌打ちして、「高くない。相場はそのくらいだ。周りに聞いてみろ。ほら」と、他の運転手たちを連れてきた。彼らは口々に「100だ」「うん、100だな」という。こうしてグルになって、観光客にふっかけるのが彼らの日常なのだろう。

 私は日本ではすることのない険しい表情を作り、「ノー。絶対にノー」と言った。すると彼はタバコを出して「まあ、一本吸えよ」と言ってきた。ああ、絶対に駄目だ、と思いながら私は手を伸ばしてしまった。初めて来た国の、知らないタバコは魅惑的だ。男はぱっと明るい顔になり、私が咥えたタバコの先に火をつけた。その笑顔は人を騙そうとするものにはまるで思えないのだった。

「息子と俺で、二人でタクシー運転手をしている。息子が客を見つけて、俺が運転するんだ」。彼はそんな話を始めた。タバコはザラザラした味がする。「息子さんはどこにいるの?」私がそう聞くと、彼は答えた。「今は家にいる。今日は、俺が早朝から車を回してるんだ」。家にいる息子との共同作業がいったいどうやって成立するのかさっぱりわからないが、立ち入ったところで良いこともないので、聞かなかった。「タバコ、うまいだろう?」と彼は言った。粗い味のタバコは、もう消えかかっていた。

「俺のタクシーに乗ればいいじゃないか。50に負けとくから」。柔らかい物腰で、微笑みながら男は言った。「なにせ、きみが呼んだというタクシーは、もう30分も来ていない」。
 その点だけは、彼の言う通りだった。正直、その額でもぼられているのはわかっていた。だがこれを断ったところで、また別の運転手たちにしつこく口説かれるのは明らかだ。それを交わしながらまた新たにタクシーを注文し、行き違いのないように乗るところまでを想像すると、げんなりした。それで、私は結局、自らぼられる形でその男のタクシーに乗ったのだった。

 この運転手が、ジョージアの首都トビリシで出会った最初の人間だった。ジョージアには憧れがあったが、知っていることはとても少ない。ヨーロッパの東の外れにあって、ワイン発祥の地と言われている。料理が美味しい。そして私がいちばん惹かれていたのが、写真で見たことのあるコーカサス山脈の風景だ。

トビリシの街。旧市街と新市街に分かれている。歴史的建造物が数多く残っており、見どころ豊富。
トビリシの街。旧市街と新市街に分かれている。歴史的建造物が数多く残っており、見どころ豊富。
トビリシの旧市街。ドームは温泉施設。
トビリシの旧市街。ドームは温泉施設。
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濱野ちひろ

1977年、広島県生まれ。
2000年、早稲田大学第一文学部卒業後、雑誌などに寄稿を始める。インタビュー記事やエッセイ、映画評、旅行、アートなどに関する記事を執筆。
2018年、京都大学大学院人間・環境学研究科修士課程修了。現在、同研究科博士課程に在籍し、文化人類学におけるセクシュアリティ研究に取り組む。
2019年、『聖なるズー』で第17回開高健ノンフィクション賞を受賞。
その他最新情報は公式HP

写真:小田駿一

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